Drama
21 to 35 years old
2000 to 5000 words
Japanese
冷たい雨がアスファルトを叩きつける夜。アパートの窓から見える景色は、ぼやけた光の粒子が闇に溶け込むだけの、単調なパターンだった。部屋の主、数学科の大学院生であるユウキは、目の前の数式に苛立ちを隠せない。複雑な偏微分方程式が、彼の思考回路を容赦なくショートさせていた。
ユウキはペンを投げ出し、乱雑に置かれた教科書の山に顔を埋めた。締切が迫る論文、理解不能な数式の羅列、そして…頭から離れない依存的な感情。それらがユウキの精神をじわじわと蝕んでいた。
遡ること半年前。大学のカフェテリアで、ユウキはアカネと出会った。彼女の屈託のない笑顔、透明感のある声。まるで計算されたかのように、ユウキの乾いた心を潤していった。彼女は美大生で、数学とは縁遠い世界に住んでいるようだった。
初めて会った日の帰り道。ユウキはアカネに、「もしよかったら、また会いませんか?」と尋ねた。彼女は少し驚いたような表情を見せた後、「ええ、ぜひ」と微笑んだ。その瞬間、ユウキは自分の心臓が異常なほど高鳴っていることに気づいた。これが恋愛なのか、それとも…ただの依存なのか? 当時のユウキには、まだわからなかった。
それから二人は、毎日会うようになった。ユウキはアカネに数学を教え、アカネはユウキに絵画やデザインの世界を教えた。互いの知らない世界に触れることで、二人の距離は急速に縮まっていった。
しかし、ユウキの心には、拭いきれない不安が常に付きまとっていた。過去の苦い経験が、彼の心を臆病にさせていたのだ。高校時代、ユウキにはカズキという親友がいた。カズキは明るく社交的で、常にユウキの傍にいてくれた。しかし、ユウキはいつしかカズキに過剰な依存心を抱くようになってしまった。いつも一緒にいたい、常に自分だけを見ていてほしい…。そんな独占欲が、カズキを徐々に苦しめていった。
ある日、カズキはユウキにそう告げた。そして、二人の間に深い溝ができてしまった。カズキはユウキの前から姿を消し、ユウキは孤独の底に突き落とされた。それ以来、ユウキは他人との深い依存関係を極度に恐れるようになった。誰かに近づくたびに、過去の悪夢が蘇り、心を締め付けるのだ。
アカネとの関係も、ユウキにとっては葛藤の連続だった。彼女の笑顔を見るたびに、心が温かくなる。しかし同時に、過去の失敗が頭をよぎり、恐怖に駆られる。ユウキはアカネを失うことを恐れ、自分を押し殺すように生きていた。そして、そのストレスは、自傷行為という形で表面化した。
ユウキは左腕の包帯を見つめた。カッターの痕が赤く腫れ上がり、鈍い痛みを訴えている。アカネとの関係が深まるにつれて、自傷行為の頻度も増えていった。ユウキは、自分の弱さを痛感し、ますます孤独を深めていった。
ある日、アカネはユウキの腕に巻かれた包帯に気づいた。「それ…どうしたの?」と、彼女は心配そうに尋ねた。
ユウキは言葉に詰まった。正直に話すべきか、それとも…ごまかすべきか。迷った末、ユウキは「階段で転んで…」と、嘘をついた。アカネは少し疑わしそうな表情を見せたが、それ以上は何も言わなかった。
しかし、その日から、アカネの態度が少しずつ変わり始めた。以前のように無邪気に笑わなくなり、どこかよそよそしい雰囲気をまとうようになった。ユウキは、自分の嘘が彼女にバレてしまったのではないかと不安になった。
数週間後、アカネはユウキに会いたいと言った。場所は、二人が初めて出会ったカフェテリアだった。ユウキは緊張しながら、約束の時間に向かった。アカネは既に席についていて、憂いを帯びた表情でユウキを見つめていた。
アカネは静かに口を開いた。「あの時、腕のこと…嘘だよね?」
ユウキは息を呑んだ。もう逃げられない…覚悟を決めて、彼は全てを話すことにした。過去のトラウマ、アカネへの依存、そして自傷行為…。
アカネはユウキの話を、黙って聞いていた。時折、彼女の瞳に涙が浮かんでいるのが見えた。ユウキが話し終わると、アカネは静かにユウキの手を握った。
アカネの言葉に、ユウキの胸は締め付けられるようだった。彼は初めて、自分の弱さをさらけ出したことを後悔しなかった。アカネは、ユウキの依存を否定せず、ただ彼の痛みに寄り添ってくれた。
「私にできることがあれば、何でも言って。一人で抱え込まないで」
アカネの言葉は、ユウキの心に深く染み渡った。彼は初めて、誰かに依存することを恐れずに、自分の感情を打ち明けることができた。アカネとの出会いは、ユウキにとって、暗闇の中の一筋の光だったのだ。
それから、ユウキはアカネの支えを受けながら、自傷行為を克服するために、精神科に通い始めた。カウンセリングを受け、薬を服用することで、ユウキの精神状態は徐々に安定していった。
しかし、問題はそれだけではなかった。大学の卒業が近づき、ユウキは将来について深く考えるようになった。研究者になるという夢はあったが、過去のトラウマが、彼に自信を持たせてくれなかった。特に数学の世界は競争が激しく、少しでも躓けば、すぐに置いていかれてしまう。
ある日、ユウキはカズキと再会した。数年ぶりに会ったカズキは、以前よりもずっと大人びて見えた。しかし、ユウキを見る目は冷たく、憎しみに満ちていた。
「お前のせいで、俺の人生はめちゃくちゃになったんだ」
カズキはユウキにそう言い放った。ユウキは何も言い返すことができなかった。過去の自分の愚かさが、全てを物語っていたからだ。カズキはユウキに罵声を浴びせ、その場を立ち去った。
ユウキは打ちのめされた。カズキの言葉は、彼の心を深く抉り、過去の傷を再び開いた。ユウキは、自分が再び孤独の底に突き落とされたような気がした。そんなユウキを支えたのは、やはりアカネだった。
アカネはユウキを抱きしめ、優しく慰めた。ユウキはアカネの温もりに触れ、心の奥底から湧き上がる安堵感に包まれた。アカネとの恋愛関係は、ユウキにとって、依存を超えた、真の心の拠り所となっていたのだ。
ユウキは、アカネの支えを受けながら、研究者になるという夢を諦めずに、努力を続けた。そして、数年後、ユウキは一流大学の数学科に採用された。かつてのトラウマを乗り越え、彼は見事に自分の夢を叶えたのだ。
今、ユウキは愛するアカネと共に、穏やかな日々を送っている。過去の依存や自傷の傷跡は、まだ残っている。しかし、彼はそれを隠さずに、アカネと分かち合っている。そして、彼女の愛に応えるように、彼は毎日を大切に生きている。いつか、カズキとのわだかまりも解ける日が来ることを信じて…。
ユウキは、自分の人生という複雑な偏微分方程式の、一つの解を見つけたのだ。