Drama
21 to 35 years old
2000 to 5000 words
Japanese
気が付くと、僕は見慣れない天井を見上げていた。白くて、無機質な、どこまでも続くような天井だ。ここはどこだろう…。死後の世界、というやつだろうか。
名前は、ショウ。EPR97809、というのが僕に与えられた識別番号らしい。僕は死んで、ここにいる。
気が付いたときから、何もかもがぼんやりとしていた。最後に何を見て、何を考えていたのか…思い出せない。ただ、胸の奥に鉛のような重さが残っていることだけは、はっきりと分かった。
転生、という言葉が頭をよぎったが、それも叶わなかったらしい。僕はほとんど生きる世界と同じ…だと説明された、死後の世界の『療養所』に送られることになった。
療養所、なんて名前だが、実際は魂の病院みたいなものだ。生前、心に傷を負った人々が、ここで死後の世界での新たな生を始めるための場所…らしい。
でも、僕はどうだろうか。生きているときからずっと、孤独だった。人との関わりを避けて、自分の殻に閉じこもっていた。そんな僕が、死後の世界で変われるのだろうか。
療養所に着いてから、僕はすぐに個室に引きこもった。誰とも話したくない、何も見たくない。ただ、時間が過ぎるのを待っていた。永遠にも思える時間が。
一日、二日…一週間、一ヶ月…。時の流れは、ここでは曖昧だ。生きているときのようにカレンダーがあるわけでもない。ただ、魂の疲労が、重くのしかかるだけだ。
八年が過ぎた。文字通り、部屋から一歩も出なかった。療養所の職員が定期的に食事と飲み物を運んできてくれるが、僕はほとんど口にしない。
呟いた言葉は、虚しく個室に響き渡る。ここは楽園なんかじゃない。生きているときとは違う苦しみがある。それは、死にたくても死ねないという残酷な事実だ。
コンコン、とドアをノックする音がした。無視しようと思ったが、その音は執拗に続いた。仕方なく、僕は重い腰を上げた。
ドアの向こうには、見慣れない女性が立っていた。長い黒髪、大きな瞳、そして、どこか憂いを帯びた表情。年は…僕と同じくらいだろうか。
「こんにちは。私は成香(なるか)っていいます。あなたの隣の部屋に住んでいるの」
僕はそう言ってドアを閉めようとしたが、彼女はそれを阻止した。
「ちょっとだけ、いいですか?ずっと気になっていたんです。あなたは、一体何を抱えているんだろうって」
彼女の瞳は、まるで僕の心の奥底を見透かしているかのようだった。僕はたじろぎながらも、少しだけドアを開けた。
成香は、僕の個室に入ってくるなり、部屋の中をきょろきょろと見回した。
「…私も、ここにいる理由は色々あります。でも、こうしているだけでは何も変わらないって、分かっているんです」
彼女はそう言うと、窓を開けた。久しぶりに感じる、死後の世界の風が、僕の頬を撫でた。
僕は戸惑った。八年間、ずっと閉じこもっていた場所から出るなんて、考えられなかった。でも、彼女の言葉には、抗えない何かがあった。
外に出ると、眩しい光が目に飛び込んできた。療養所の庭は、色とりどりの花で溢れていた。特に目を引いたのは、アネモネの花だ。鮮やかな赤、優しい白、そして、深く神秘的な紫…。
思わず、声に出してしまった。花を見たのは、いつぶりだろうか。
「アネモネ、好きなんです。花言葉は『はかない恋』とか『希望』とか…色々あるみたいですけど」
それから、僕たちは毎日、庭を散歩するようになった。最初はぎこちなかった会話も、徐々に弾むようになった。彼女は、僕の話をじっくりと聞いてくれた。僕が抱える孤独、後悔、そして、絶望を。
その言葉を聞いた瞬間、僕の心臓は凍り付いたようだった。僕は、自分が死んだ原因を思い出せずにいた。いや、思い出したくなかったのかもしれない。
「…無理に思い出さなくてもいいんです。でも、もし、話せるようになったら…聞かせてください」
成香は、それ以上追求しなかった。彼女の優しさが、僕の心を少しずつ溶かしていく。
それからしばらくして、僕は少しずつ過去を思い出し始めた。断片的な記憶が、頭の中に浮かび上がってくる。激しい怒り、深い絶望、そして…愛。
記憶が蘇るにつれて、後悔の念が押し寄せてきた。あんなことをしなければ、息子は苦しまずに済んだのに…。
彼女の言葉に、僕は堰を切ったように泣き出した。まるで、溜まっていた全ての感情が、涙となって溢れ出したかのようだった。
泣き終わった後、僕は成香に、全てを話した。息子との幸せな日々、会社での理不尽な扱い、そして、積もり積もった絶望…。
全てを話し終えた後、僕は、まるで長い悪夢から覚めたかのような気分だった。心はまだ痛むけれど、どこか、心が軽くなったような気がした。
「…少しだけ、自分が死んだ事を受け入れられたような気がします」
それから、僕は療養所で少しずつ他の人と関わるようになった。かつての僕からは想像もできないことだ。彼らもまた、様々な過去を背負って、ここにいる。
『お父さんへ
お父さんがいなくなってから、もう八年が経ちました。僕は、何とか生きています。
お父さんがどうしてあんなことをしたのか、今でも分かりません。でも、お父さんが苦しかったことは、何となく分かります。
僕は、お父さんの分まで、精一杯生きていこうと思っています。
お父さんのことが、ずっと大好きです。
息子より』
手紙を読んだ瞬間、僕は再び涙が溢れてきた。息子は、僕の死因を知っているのだろうか…。
手紙の最後に書かれた『お父さんのことが、ずっと大好きです』という言葉が、僕の心を深く抉った。
僕は、息子のために、もっと生きたかった。息子の成長を、もっと見たかった。
数年後、僕は療養所を卒業することになった。死後の世界の新たな生活を始めるために。
「あなたは、もう大丈夫。あなたは、きっと幸せになれます」
「ありがとう。あなたがいなかったら、今の僕はなかったと思う」
そして、その数年後。僕は、死後の世界のある街で、花屋を営んでいた。
店には、いつも色とりどりの花が咲き誇っていた。特に、アネモネの花は、僕の一番のお気に入りだ。
ある日、花屋に若い男性がやってきた。どこか憂いを帯びた表情をした、青年だった。
彼は、アネモネの花束を手に取り、じっと見つめていた。
その時、青年の背後から、微かに音が聞こえた。危険な…衝動的な…何かの足音。
僕は、とっさに理解した。青年は、今まさに、現実世界で、僕の後を追おうとしているのだ。
すると、青年は驚いたように顔を上げ、何かを悟ったような表情をした。そして、ゆっくりと、花束を抱きしめた。
僕は、安堵した。彼は、きっと大丈夫だ。彼は、生きてくれる。
僕は、アネモネの花を見つめた。希望の花。それは、生と死を超えて、僕たちの心を繋いでいる。
そして、僕は今日も、花屋で花を育てている。誰かの心を癒し、誰かに希望を与えるために…