Drama
21 to 35 years old
2000 to 5000 words
Japanese
「ああ、また始まった…」頭痛が重い。今日も一日、この白い壁に囲まれた部屋で終わるのか。僕は、EPR97809、ここではただのショウと呼ばれている。8年間、この療養所の一室からほとんど出ていない。死後の世界だというのに、生きている時と変わらない倦怠感が僕を蝕む。
事の発端は、あの夜だった。死因など、思い出したくもない。ただ、焼けるような痛みと、息子ユウタの泣き叫ぶ声が、今も耳にこびり付いている。僕は、あの日、全てを終わらせたのだ。
転生?そんなものはなかった。目が覚めた時、僕はここにいた。ほとんど現世と同じ、死後の世界の療養所。ここに来る人間は皆、何かしらの心の傷を抱えているらしい。でも、僕は違った。僕は、死んだ事すら受け入れられなかった。
微かにドアが開く音がした。「ショウさん、おはようございます」
彼女は、この療養所の看護師だ。いつも笑顔で、僕の体調を気遣ってくれる。でも、僕は心を閉ざしたまま。彼女の優しさを受け入れる事も、拒絶する事も出来なかった。
彼女は、いつものように、少し困ったような顔で微笑んだ。「無理強いはしません。でも、少しでも外の空気を吸ってみませんか?今日は、庭のバラが綺麗に咲いているんですよ」
バラ…。興味も湧かなかった。僕は、ベッドに体を預けたまま、目を閉じた。「いいよ、今日は。少し、疲れてるんだ」
彼女は何も言わず、ドアを閉めて出て行った。残されたのは、静寂と、重苦しい空気だけ。
それが、僕の日常だった。死んだ事を認めず、過去の記憶に囚われ、ただ時間を浪費するだけの、苦しみの日々。
ある日、いつものように体調不良を訴えると、成香さんは、少し強い口調で言った。「いい加減にしてください!ショウさん、あなたは、いつまでそうしているつもりですか?確かに辛い過去があったかもしれない。でも、それはもう終わった事なんです!いつまでもそこに留まっていても、何も変わりません!」
僕は、何も言えなかった。彼女の言葉が、胸に突き刺さった。でも、どうすればいいのか分からなかった。僕は、死んだ人間なのだ。未来など、あるはずがない。
「…私には、あなたの苦しみは分からないかもしれません。でも、少なくとも、あなたは一人じゃない。私たちは、あなたの回復を願っています」
その言葉に、僕は初めて、彼女の真剣な眼差しに気付いた。そして、心の奥底で、何かが溶け始めたのを感じた。
翌日、僕は、8年ぶりに部屋から出た。眩しい光が目に飛び込んできた。庭には、たくさんのバラが咲き誇っていた。赤、白、ピンク…鮮やかな色彩が、僕の心を少しだけ明るくした。
成香さんは、僕に気づき、優しく微笑んだ。「よく来てくださいましたね」
僕は、ゆっくりと庭を歩き始めた。風が心地よく、バラの香りが鼻をくすぐる。しばらく歩いていると、小さな池のそばに、ベンチがあるのを見つけた。
ベンチに腰掛け、池を眺めていると、一人の老人が、僕に話しかけてきた。「綺麗じゃろう?わしも、毎日ここでこうして景色を眺めておるんじゃ」
老人は、穏やかな笑顔で、池の鯉に餌をやり始めた。僕は、彼の顔を見つめた。彼の顔には、深い皺が刻まれていたが、どこか安らかな表情をしていた。
「わしはな、生前は漁師じゃった。ある日、嵐に巻き込まれて、海に沈んでしもうた。最初は、死んだ事が信じられんかった。自分の人生が終わってしまった事が、悔しくて、悲しくて…」
老人は、少しの間、言葉を失った。そして、静かに語り始めた。「でもな、時間が経つにつれて、少しずつ、受け入れる事が出来るようになったんじゃ。受容じゃな。自分の人生は終わってしもうた。でも、それは、終わりなんかじゃない。新しい始まりなんじゃ」
彼の言葉は、僕の心に深く響いた。新しい始まり…。そんなものがあるのだろうか?僕は、まだ過去に囚われたまま。自分の死を受け入れられずにいる。
老人は、僕の表情を見て、優しく微笑んだ。「焦る必要はない。ゆっくりでええんじゃ。いつか、きっと、分かる日が来る」
その日から、僕は、少しずつ、変わっていった。毎日、庭に出て、バラを眺めたり、老人と話したりするようになった。成香さんとも、少しずつ、心を開けるようになった。
ある日、成香さんに、自分の過去について話した。妻からの虐待、息子の事、そして、焼身自殺…。全てを、話した。
成香さんは、涙を流しながら、僕の話を聞いてくれた。「辛かったですね…本当に…」
僕は、彼女の肩に顔を埋めて、泣いた。それは、8年間、溜まりに溜まった、悲しみと苦しみの涙だった。
泣き終わった後、僕は、少しだけ心が軽くなった気がした。過去の出来事は、消えない。でも、少しずつ、向き合う事が出来るようになってきた。
ある日、僕は、死因について、調べてみる事にした。図書館に行き、当時の新聞記事や記録を読んだ。そこには、僕の自殺が大きく報道されていた。そして、ユウタの名前も…。
記事には、ユウタが、僕の死後、児童養護施設に入ったと書かれていた。僕は、胸が締め付けられるような思いだった。ユウタは、今、どうしているだろうか?元気だろうか?
その日から、僕は、ユウタの事を、毎日考えるようになった。彼の成長を、彼の幸せを、心から願うようになった。そして、僕は、初めて、自分の死を受け入れる事が出来た。
ある日、僕は、成香さんに言った。「ユウタに、会いたい」
成香さんは、驚いたような顔で、僕を見つめた。「でも、それは…」
「分かってる。無理だって事は。でも、どうしても、彼に会いたいんだ。彼に、謝りたい。そして、彼に、幸せになって欲しいと伝えたい」
成香さんは、少し考えた後、言った。「分かりました。方法を探してみましょう」
それから、成香さんは、毎日、ユウタの情報を探してくれた。そして、数日後、ついに、ユウタの居場所を突き止めた。
「彼は、今、大学に通っているそうです。一人暮らしをしているみたいです」
僕は、喜びで震えた。ユウタは、立派に成長していたのだ。僕は、どうしても彼に会いたかった。しかし、死後の世界から、現実世界に行く事は出来ない。
そこで、成香さんは、ある提案をした。「夢を通してなら、会えるかもしれません」
「人は、夢の中で、無意識に繋がっていると言われています。あなたが、ユウタの事を強く思い、夢の中で彼に語りかければ、彼は、きっと、あなたの声を聞く事が出来るでしょう」
僕は、成香さんの言葉を信じ、毎日、ユウタの夢を見る事を試みた。しかし、最初は、うまくいかなかった。僕は、過去の出来事に囚われ、ユウタの事を思う余裕がなかった。
しかし、諦めずに、毎日、努力を続けた。そして、ある夜、ついに、ユウタの夢を見る事が出来た。
夢の中で、ユウタは、幼い頃の姿のまま、僕に駆け寄ってきた。「パパ!」
僕は、ユウタを抱きしめ、涙を流した。「ユウタ…大きくなったな…」
ユウタは、不思議そうな顔で、僕を見つめた。「パパ…どうしたの?なんか、いつもと違うよ」
僕は、ユウタに、全ての事を話した。妻からの虐待、自殺、そして、死後の世界での苦しみ…。
ユウタは、静かに僕の話を聞いてくれた。そして、最後に、こう言った。「パパ…辛かったね。でも、もう、大丈夫だよ。僕がいるから」
その言葉に、僕は、救われた気がした。ユウタは、僕の全てを受け入れてくれたのだ。僕は、彼に感謝の気持ちを伝え、別れを告げた。
目が覚めた時、僕は、清々しい気持ちだった。過去の出来事は、消えない。しかし、ユウタの存在が、僕の心を支えてくれた。
それから、僕は、療養所で、他の患者の心のケアをするようになった。自分の経験を通して、彼らを励まし、希望を与えるようになった。
僕は、もう、孤独ではなかった。成香さん、老人、そして、療養所の仲間達が、僕を支えてくれた。
ある日、成香さんが、深刻な顔で、僕に話しかけてきた。「ユウタさんが…」
「ユウタさんが、あなたを追って、死のうとしているみたいです」
僕は、信じられなかった。ユウタが、僕の後を追うなんて…。
「彼は、あなたの事を調べて、あなたの苦しみを知ったそうです。そして、あなたを救いたいと言っているんです」
僕は、すぐに、ユウタの夢を見る事を試みた。しかし、何度試しても、ユウタの夢を見る事が出来なかった。彼は、僕の呼びかけに、耳を傾けてくれなかった。
焦る僕を見て、成香さんは、言った。「落ち着いてください。ユウタさんの心に、あなたの声が届くように、祈りましょう」
僕たちは、一緒に、ユウタのために祈った。彼の幸せを、彼の未来を、心から願った。
その時、突然、僕の頭の中に、ユウタの声が響いてきた。「パパ…」
僕は、必死に叫んだ。「ユウタ!死ぬな!生きてくれ!お前の人生は、まだ始まったばかりだ!僕の分まで、生きてくれ!」
ユウタの声は、聞こえなくなった。僕は、祈り続けた。彼の未来を、心から願った。
数日後、成香さんが、笑顔で、僕に報告した。「ユウタさんは、死ぬのを思いとどまったそうです!」
僕は、喜びのあまり、涙を流した。ユウタは、生きてくれたのだ。彼は、未来を生きる事を決意してくれたのだ。
それから、僕は、ユウタの成長を、遠くから見守り続けた。彼は、立派な大人になり、結婚し、子供を授かった。彼は、幸せな人生を送っていた。
僕は、療養所で、静かに暮らしている。過去の出来事は、消えない。しかし、ユウタの存在が、僕の心を支えてくれる。僕は、死後の世界で、ようやく、幸せを見つけたのだ。