Drama
21 to 35 years old
2000 to 5000 words
Japanese
気が付くと、僕は見慣れない場所に立っていた。白い壁、消毒液の匂い、そしてどこかぼんやりとした光。まるで病院のようだが、違う。ここは…死後の世界、らしい。
僕の名前はショウ。享年、確か27歳。詳しいことは…思い出せない。いや、思い出したくないのかも。
なぜこんな場所にいるのか、最初は全く理解できなかった。転生するわけでもなく、天国や地獄のような場所でもない。ここは、死後の世界にある『療養所』と呼ばれる場所だった。
どうやら、僕はとある出来事から死んでしまい、魂の状態があまり良くないらしい。療養所で心身を癒し、今後のことを考える…というのが、ここの趣旨らしい。
「…フッ」僕は鼻で笑った。生きている時からロクなことがなかったのに、死んでまで癒される必要があるのか?そんなことを考えているうちに、僕は療養所の個室に引きこもるようになった。
療養所での生活は、退屈そのものだった。食事は提供されるし、最低限の生活は保障されている。だが、刺激も希望も、何もなかった。ただ時間だけが過ぎていく。
一日、また一日…いつの間にか、8年間が過ぎていた。
生きている時は、辛いことがあれば『死んだら楽になる』と安易に考えていた。でも違った。死後の世界にも、死後の世界なりの苦しみがある。
それは、死にたくても死ねないという残酷な事実だった。僕らはもう死んでいるのだから。
ある日、いつものように個室でぼんやりとしていると、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。
返事はない。しかし、ノックは止まらない。仕方なく、僕は重い腰を上げてドアを開けた。
そこに立っていたのは、僕よりも少し年下くらいの女性だった。澄んだ瞳、穏やかな笑顔。まるで春の陽だまりのような、暖かさを持った人だった。
「こんにちは。私の名前は成香といいます。ショウさん、少しお話しませんか?」
僕は警戒心をあらわにした。「…話すことなんてない」
「でも、こうしている間にも時間は過ぎていきますよ?8年間もここに閉じこもっていたのでしょう?何か理由があるはずです」成香は優しく言った。
彼女の言葉は、僕の心の奥底に少しだけ届いた気がした。それでも、僕は簡単に心を開くことはできなかった。
成香は少し残念そうな顔をした。「そうですか。でも、もし何か話したくなったら、いつでも声をかけてくださいね」
その後も、成香は何度も僕の部屋を訪ねてきた。いつも穏やかな笑顔で、僕に話しかけてくれた。
最初は無視していた僕も、次第に彼女の存在に慣れていった。そして、少しずつだが、心を開き始めていた。
ある日、僕は意を決して彼女に話しかけた。「…なぜ、僕にそんなに優しくするんだ?」
成香は少し驚いた顔をした後、微笑んだ。「ショウさんは、どこか寂しそうに見えたから。それに、誰もが幸せになる権利があると思うんです。たとえ、死後の世界にいても」
彼女の言葉は、僕の心を深く揺さぶった。そうだ、僕は幸せになりたい。そう思ってもいいんだ。
それから、僕は少しずつ部屋から出るようになった。療養所の庭を散歩したり、他の魂たちと話したり。全てが新鮮で、眩しかった。
成香は、僕の受容を助けてくれた。僕が自分が死んだ事を、ゆっくりと、しかし確実に受け入れていくのを、そばで見守ってくれた。
ある日、僕は意を決して彼女に聞いた。「…僕の死因、知っているのか?」
彼女は深呼吸をして、言った。「…あなたは…焼身自殺をされたそうです」
その言葉を聞いた瞬間、僕の頭の中は真っ白になった。焼身自殺…。そんなことを、僕が…?
「…信じられない。僕はそんなことをするはずがない」
「…辛かったんですね、ショウさん。きっと、色々なことが重なって、追い詰められてしまったんでしょう」
僕は混乱していた。なぜ、僕は死んだんだ?なぜ、焼身自殺なんて…。
記憶が断片的に蘇ってきた。仕事でのプレッシャー、人間関係のストレス、そして…息子。小さい息子を残して死んでしまったのか…?
罪悪感が、津波のように押し寄せてきた。僕は最低だ。自分のことしか考えず、息子を置いて死んでしまった。
成香は、僕を優しく抱きしめてくれた。「もういいんですよ、ショウさん。あなたはもう苦しまなくてもいいんです」
彼女の温もりは、僕の凍り付いた心をゆっくりと溶かしていった。
それから、僕は少しずつ過去と向き合うようになった。セラピーを受けたり、他の魂たちと語り合ったり。
僕は、息子への罪悪感を抱えながらも、生きていく(もはや生きているとは言えないが)決意をした。いや、償いをすると言った方が正しいかもしれない。
ある日、成香が深刻な顔で僕に話しかけてきた。「ショウさん…大変なことが起きました」
「あなたの息子さんが…あなたの後を追おうとしているんです」
その言葉を聞いた瞬間、僕は血の気が引いた。息子が…?僕の後を追って、死のうとしているのか?
「…どうすればいい?何かできることはないのか?」僕は必死で彼女に聞いた。
「…一つだけ方法があります。現実世界に干渉する方法です。ただし、莫大なエネルギーを消費し、二度とこの世界に戻れなくなる可能性もあります」
僕は迷わなかった。「構わない。どんなことをしてでも、息子を止めたい」
彼女は、療養所の奥にある特別な部屋に僕を案内した。そこは、現実世界と繋がるためのゲートウェイだった。
「これから、あなたの意識を息子さんの心に送ります。強い意志を持って、息子さんに語りかけてください。必ず届くはずです」
成香はゲートウェイを起動させた。眩い光が僕を包み込む。意識が遠のいていく…。
彼は、今まさに死のうとしていた。首にロープをかけ、椅子に足をかけた、まさにその瞬間だった。
「…やめろ!」僕は叫んだ。しかし、声は届かない。僕の声は、彼の心の奥底に響いているはずだ。
「やめろ!死ぬな!お前には、まだ未来があるんだ!」僕は必死で訴えた。
僕の言葉は、彼の心に少しずつ届き始めた。彼の瞳に、迷いの光が宿る。
僕は泣きながら叫んだ。「そうだ、お父さんだ!お前には、まだやらなければならないことがたくさんある!お前は一人じゃないんだ!生きろ!」
彼の瞳から、涙が溢れ出した。そして、彼は決意したようにロープを外し、椅子から降りた。
「…わかった。生きる。お父さんの分まで、僕は生きる」
次の瞬間、僕の意識は急速に薄れていった。ゲートウェイのエネルギーを使い果たしたのだ。もう、この世界には戻れない。
それでも、僕は後悔していなかった。息子を救えた。それが、僕の最後の役目だった。
意識が完全に途絶える直前、僕はかすかに成香の声を聞いた気がした。「…さよなら、ショウさん」
僕は静かに目を閉じた。そして、永遠の眠りについた。
死後、僕は受容された。死因となった過去を乗り越え、息子を救うことができた。それこそが、僕にとっての本当の死後の世界だったのだろう。