数字と硝子の迷宮

Drama 14 to 20 years old 2000 to 5000 words Japanese

Story Content

数式が、僕の世界を彩る唯一の色だった。窓から差し込む午後の光が、埃を照らし出す。その埃が、黒板に書き連ねられた記号と数式の海を漂っているようだった。僕は数学依存 していた。それが唯一の安定剤であり、逃避先だったから。
(カチャ)
背後でドアが開く音がした。振り向くと、そこにいたのは日比野栞だった。彼女の瞳はいつも何かを訴えているようで、でも、言葉にはしない。
「…また、そんなに難しいのをやってるの?」
栞の声は小さく、でも、どこか安心する響きがあった。僕は曖昧に頷いた。
「ああ…ちょっと複雑な証明問題を。依存症、かもね。解けないと落ち着かないんだ。」
栞は少しだけ微笑んだ。「数学ってすごいね。私にはさっぱり分からないけど。」
彼女の依存先は、僕だった。そして、僕はそれを知っていた。いや、むしろ利用していたのかもしれない。互いに必要とし、支え合う。それが、僕たちの日常だった。
初めて栞に会ったのは、高校の入学式だった。彼女は一人、桜の木の下に立っていた。儚げで、今にも消えてしまいそうな、そんな印象を受けた。その時、僕の中に湧き上がった感情が何だったのか、今でもわからない。憐れみか、それとも…。
声をかけようとした時、彼女の目が僕を捉えた。その瞳の奥に、同じように孤独を抱えた自分を見つけた気がした。
「あの…何か困っていますか?」
僕の問いかけに、彼女は少しだけ驚いたように目を丸くした。「…迷子、かな」
その一言がきっかけで、僕たちは話をするようになった。互いの趣味、家族構成、そして、抱えている心の傷について。気づけば、僕たちはいつも一緒にいた。それは、まるで運命のようだった。しかし、僕は常に疑問を抱いていた。これは恋愛なのか、それとも単なる依存なのか…?
高校時代、僕は一人、親友と呼べる男がいた。彼の名前は、佐藤拓也。明るくて、誰からも好かれる、そんな男だった。僕の暗い性格とは正反対で、僕にとって太陽のような存在だった。彼との出会いは、中学校の入学式だった。偶然隣の席になり、すぐに意気投合した。
僕たちはいつも一緒にいた。勉強も、部活も、遊びも。何をするにも一緒だった。僕はいつしか、拓也に依存するようになっていた。彼の笑顔が見たくて、彼の役に立ちたくて、僕は必死だった。
しかし、僕の依存は、次第に拓也を苦しめるようになった。彼は、僕の執着に疲弊し、距離を置くようになった。そして、ある日、彼は僕に言った。「…お前といると、息が詰まるんだ」
その言葉が、僕の心を深く傷つけた。僕は、拓也を失った。それ以来、僕は他人との深い関係を恐れるようになった。人はいつか離れていく。そう思うと、誰にも近づけなくなった。
「…ねえ、透。」
栞の声が、僕を現実に戻した。彼女は心配そうな表情で僕を見つめていた。「何か考え事?難しい顔してるよ。」
「…少し、昔のことを思い出していたんだ。」
僕は、拓也との過去を栞に話した。自分の依存が、親友を傷つけ、失ってしまったこと。それ以来、他人との関係を恐れていること。
栞は、黙って僕の話を聞いてくれた。そして、話し終わった後、そっと僕の手を握った。「…透は、優しい人だよ。」
彼女の言葉は、僕の心に染み渡った。暖かい、光のような言葉だった。でも、同時に、罪悪感も湧き上がってきた。僕は、栞に依存している。彼女の優しさに、安らぎに、依存している。それは、拓也を失った時と同じ過ちを繰り返しているのではないか…?
その夜、僕は自室で一人、自傷行為に及んだ。カッターナイフの刃を、自分の腕に押し当てる。痛みが、思考を麻痺させる。僕は、自分の存在意義を見つけられずにいた。数学だけが、唯一の逃げ道だった。
朝、目が覚めると、腕には無数の傷跡が残っていた。僕は、自分の愚かさに嫌気が差した。こんなことをしても、何も変わらない。そう分かっていながら、僕はまた繰り返してしまう。
学校へ行くと、栞が待っていた。彼女は僕の顔を見るなり、心配そうな表情になった。「…透、顔色が悪いよ。何かあった?」
僕は、作り笑いを浮かべて言った。「…何でもないよ。少し寝不足なだけだ。」
栞は、僕の言葉を信じなかった。彼女は、僕の嘘を見抜いていた。そして、彼女は言った。「…嘘だ。何か隠してる。教えて、透。」
僕は、何も言えなかった。自分の心の闇を、誰にも打ち明けられなかった。僕は、ただ黙って俯いた。
その時、栞はそっと僕を抱きしめた。彼女の温かさが、僕の心を包み込む。僕は、堪えきれずに涙を流した。
「…大丈夫だよ。私がいるから。」
栞の言葉は、僕の心に響いた。彼女の優しさが、僕を救ってくれる気がした。僕は、彼女に依存することでしか生きられないのかもしれない。でも、それでもいいと思った。彼女がいてくれるなら、僕は生きていける。
しかし、その時、僕の頭の中に、拓也の言葉が蘇った。「…お前といると、息が詰まるんだ」
僕は、栞を傷つけたくない。彼女を苦しめたくない。そのためには、僕は彼女から離れなければならない。でも、それは僕にはできない。僕は、彼女に依存している。彼女なしでは、生きていけない。
僕は、葛藤した。愛と依存、希望と絶望、光と闇。僕の心は、いつも揺れ動いていた。そして、その答えを見つけることは、容易ではなかった。
ある日、栞は僕に言った。「…ねえ、透。私たち、一度距離を置いてみない?」
僕は、息を呑んだ。彼女の言葉は、予想外だった。僕は、彼女に拒絶されることを恐れていた。しかし、それは、僕の予想とは違った。
「…透は、数学依存しすぎている。もっと、自分の好きなことを見つけて欲しい。私は、透が幸せになることを願っている。」
栞の言葉は、優しかった。でも、同時に、厳しさも感じられた。彼女は、僕の依存から抜け出すことを願っていた。そして、そのためには、一時的に離れることが必要だと考えていた。
僕は、彼女の言葉を受け入れた。それが、彼女のためになると思ったから。僕は、彼女から離れることを決意した。
それから、僕は数学以外のことに目を向けるようになった。小説を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたり。色々なことを試した。
最初は、戸惑うことばかりだった。しかし、次第に、僕は新しい世界に興味を持つようになった。そして、数学だけが、自分の世界ではないことに気づいた。
数ヶ月後、僕は栞に再会した。彼女は、以前よりも明るい表情をしていた。僕も、以前よりも落ち着いていた。
「…元気にしてた?」
栞の問いかけに、僕は笑顔で答えた。「…うん。色々なことを試してみて、新しい発見があったよ。」
栞は、嬉しそうに微笑んだ。「…それは良かった。透が、依存から抜け出せて本当に嬉しい。」
僕たちは、以前とは違う形で、再び関係を築き始めた。それは、恋愛なのか、それとも単なる友情なのか、今でも分からない。でも、それでもいいと思った。大切なのは、互いを尊重し、支え合うこと。それこそが、真実の愛の形なのだと、僕は信じている。
そして、僕は気づいた。数学は、僕の逃避先ではなく、情熱を注ぐ対象になったのだ。依存ではなく、恋愛かどうか分からなくてもいい、大切な人とゆっくり関係性を築いていけば良い。僕は今、少しずつだが、前に進んでいる。