数式と傷痕と、君の光

Drama 14 to 20 years old 2000 to 5000 words Japanese

Story Content

都会の喧騒から少し離れた、静かな住宅街にあるカフェ。窓際の席に座る高校生の数学者、結城 湊(ゆうき みなと)は、目の前の数式ノートに集中していた。微積分、群論、位相幾何学…。数字と記号の織りなす世界に没頭している時だけが、彼の心を安らぎで満たしてくれた。
しかし、その安らぎも長くは続かない。ふと気づくと、左腕には無数の自傷痕が痛々しく刻まれていた。カッターの刃を当てる瞬間、痛みと共に、どうしようもない自己嫌悪が押し寄せるのだ。誰にも言えない、彼の秘密。
湊は依存心が強い。かつて、親友だった斉藤 陽太(さいとう ようた)との関係を、歪んだ依存関係に変えてしまった過去がある。陽太が離れていった時の絶望感は、今も彼の心に深い傷跡を残している。それ以来、湊は他人との深い関わりを極度に恐れるようになった。
そんな湊の日常に、ある日、変化が訪れる。クラスメイトの少女、桜井 凛(さくらい りん)が、数学の質問をしてきたのだ。凛は明るく、誰に対しても分け隔てなく接する、クラスの人気者だった。湊は最初は警戒したが、凛の真っ直ぐな瞳を見ているうちに、次第に心を開いていった。
凛は、湊の数学の才能を心から尊敬していた。湊の解く数式は、まるで芸術作品のように美しかった。凛は、湊に数学を教わるうちに、次第に湊自身に惹かれていった。彼の孤独、脆さ、そして、内に秘めた優しさに触れるにつれて、その気持ちは恋愛へと変わっていった。
二人は放課後、カフェで一緒に勉強するようになった。凛は湊の隣で、彼の解く数式をじっと見つめていた。時々、湊の腕に包帯が巻かれているのが目に入ることがあったが、凛は何も聞かなかった。彼女は、湊の過去を知ろうとはしなかった。ただ、今の湊を理解し、支えたいと思っていた。
ある日、凛は湊に、自分の数学の課題を手伝ってほしいと頼んだ。湊は最初は戸惑ったが、凛の熱意に押され、渋々承諾した。二人は、湊の家で一緒に課題に取り組むことになった。凛は、湊の部屋に飾られた数学者の写真を見つめながら、感嘆の声を上げた。
湊の部屋は、まるで小さな数学博物館のようだった。壁には数式がびっしりと書かれたホワイトボード、本棚には難解な数学書がぎっしりと並んでいる。凛は、湊の数学への情熱に圧倒された。同時に、湊の孤独を感じ、胸が締め付けられる思いがした。
課題が終わった後、凛は湊に、自傷行為について尋ねた。湊は顔色を変え、言葉を詰まらせた。凛は優しく湊の手を取り、彼の過去について語るよう促した。湊は、震える声で、陽太との過去、そして、自己嫌悪について語り始めた。
凛は、湊の話を聞きながら、涙を流した。彼女は、湊の苦しみを理解したかった。そして、彼を救いたいと思った。凛は、湊を抱きしめ、言った。「湊君は、一人じゃないよ。私がいるから」
その時、湊は初めて、自分が凛に依存していることに気づいた。しかし、それは陽太との依存関係とは全く違うものだった。凛の依存は、温かく、優しい光に満ちていた。湊は、凛の光に照らされることで、少しずつ、過去の傷を癒していくことができた。
しかし、平穏な日々は長くは続かなかった。ある日、湊は街で偶然、陽太と再会してしまう。陽太は、湊に対する憎しみを隠そうともしなかった。彼は、湊の依存によって人生を狂わされたと恨んでいた。
陽太は、湊の自傷癖を知っていた。彼は、湊を精神的に追い詰めるために、その事実を暴露しようとした。凛は、湊を守ろうとしたが、陽太は聞く耳を持たなかった。彼は、湊の過去を、SNSで拡散しようとした。
絶望した湊は、再び自傷行為に走ってしまう。しかし、その時、凛は湊を抱きしめ、止めた。「湊君、逃げないで。私は、湊君を信じてるから」凛の言葉に、湊は我に返った。彼は、凛の支えがあるからこそ、過去と向き合うことができるのだと気づいた。
湊は、陽太に立ち向かうことを決意した。彼は、自分の過去を隠さずに、すべてを打ち明けた。そして、陽太に謝罪した。「あの時は、本当にごめん。君を傷つけてしまったこと、今でも後悔してる」
陽太は、湊の謝罪を受け入れなかった。彼は、湊に対する憎しみを捨てることができなかった。しかし、湊の覚悟を見た時、陽太の心にも、わずかな変化が生まれた。
「お前なんか、数学者になれるはずがない」陽太は、最後にそう言い捨てて去っていった。湊は、陽太の言葉に深く傷ついたが、凛の励ましを受け、再び数学の研究に打ち込むことを決意した。
湊は、凛の支えのおかげで、過去の傷を乗り越え、数学者としての道を歩み始めた。彼は、いつか必ず、陽太に認めてもらえるような、立派な数学者になると誓った。
数年後、湊は、若き数学者として、世界的に注目されるようになった。彼の研究は、数学界に大きな革新をもたらし、多くの人々に希望を与えた。湊は、かつての親友に感謝するとともに、いつか、彼と心から笑い合える日が来ることを願っていた。
しかし、陽太は違った。彼の湊への憎しみは増すばかりだった。陽太は事件を起こし、警察に逮捕される。そのニュースをテレビで見た湊は、複雑な気持ちになる。彼を救えなかった後悔と、今も消えない過去の傷。湊は法廷に立ち、陽太に情状酌量を求める。彼の証言が功を奏し、陽太の刑はいくらか軽くなった。
数年後、刑期を終えた陽太は、湊に会うため彼の講演会へと向かう。講演会後、陽太は湊に会う。「あの時は、すまなかった」初めて陽太は湊に謝罪した。湊はそれを受け入れ、二人はようやく和解することができた。
湊と凛は、その後、結婚した。二人の間には、一人の子供が生まれた。湊は、子供に数学の楽しさを教えるとともに、依存しない、自立した人間として成長してほしいと願った。彼は、凛とともに、幸せな家庭を築いていった。
(あとがき:斉藤陽太の視点)
なぜ、私はあいつをこんなにも憎んでしまうのだろうか…。あの時、依存してきた湊を拒絶しなければ、私はこんな人生を歩まなかったのだろうか。しかし、湊の才能を目の当たりにするたび、嫉妬と自己嫌悪が募るのだ。暴力的な手段に走ってしまったこと、今でも後悔している。湊、お前はもう、私の知らない場所にいってしまったんだな…。