来世の療養所

Drama 21 to 35 years old 2000 to 5000 words Japanese

Story Content

ここはどこだろう…。
白い天井、白い壁、漂う消毒液の匂い。
僕はゆっくりと体を起こした。全身が鉛のように重い。
最後に何があったのか、思い出せない。
「気が付きましたか、ショウさん?」
優しい声が聞こえた。声の主は、白衣を着た若い女性だった。
「ここは死後の世界にある『療養所』です。」
療養所…?死後…?
「あなたは亡くなったんです。」女性は静かに告げた。
自分が死んだ…?
信じられなかった。まさか、本当に死後の世界があるなんて。
女性は続ける。「あなたの死因は…今は思い出さなくてもいいかもしれません。今はただ、ゆっくりと体を休めてください。」
言われるままに、僕は再びベッドに身を預けた。体だけでなく、心も重かった。
療養所での生活は、まるで現世と変わらなかった。
規則正しい食事、診察、リハビリ…。ただ、一つだけ違うのは、ここにいる人々は皆、死んでいるということ。
周りの人々は、穏やかな表情で語り合っていた。
人生の思い出、後悔、そしてこれからのこと…。
でも、僕はどうしても馴染めなかった。
過去を思い出そうとすればするほど、激しい頭痛が僕を襲った。
死んで楽になると思っていたのに、死後の世界にも苦しみがあるなんて…。
そう、死にたくても死ねないという残酷な事実が。
それから8年が経った。
僕は、療養所の個室に引き籠っていた。
頭痛、腹痛、軽い下痢…。
体調不良を言い訳に、誰とも話さず、ただひたすら天井を見つめる毎日。
ある日、ドアをノックする音が聞こえた。
無視しようと思ったが、しつこくノックは続く。
「…誰ですか?」
「成香(なるか)です。少しだけ、お話しませんか?」
成香…。聞き覚えのない名前だ。
僕は渋々ドアを開けた。
そこに立っていたのは、長い黒髪の美しい女性だった。
「初めまして、ショウさん。」成香は微笑んだ。「私は、あなたの隣の部屋に引っ越してきたんです。」
「…何の用ですか?」
「ただ、あなたのことが気になって。」成香は率直に言った。「あなたはいつも部屋に閉じこもっているから。」
「放っておいてください。」
「…あなた、死んだ事を受け入れられていないでしょう?」
図星だった。
僕は何も言えなかった。
「無理にとは言いません。でも、もし何か話したくなったら、いつでも声をかけてください。」
成香はそう言い残して、部屋を出て行った。
それから数日後、僕は廊下で成香と再会した。
「…おはようございます。」
「おはようございます、ショウさん。」成香は笑顔で答えた。
僕は、何か話さなければならないと思った。
「…僕は、8年間、部屋に引き籠っていました。」
「知っています。」
「…どうして、そんなことを?」
「あなたは、死んだ事から目を背けていると思ったから。」
「…受け入れられないんです。自分が死んだなんて。」
「なぜですか?」
「…わからないんです。ただ、過去を思い出そうとすると、頭が痛くなるんです。」
「過去を思い出さなくてもいい。ただ、少しずつ、今の自分と向き合ってみませんか?」
成香の言葉に、僕は少し心が動いた。
「…あなたは何で死んだんですか?」僕は尋ねた。
「…私は、事故で死んだんです。」成香は少し悲しそうな表情を浮かべた。
「…そうですか。」
「でも、私は後悔していません。短い人生だったけど、精一杯生きたから。」
成香の言葉は、僕の胸に深く響いた。
「…僕も、少しずつ、変わってみようと思います。」
「本当ですか?嬉しい!」成香は、心から喜んでいるようだった。
それから、僕は少しずつ、成香と話すようになった。
彼女はいつも明るく、優しく、僕の話を聞いてくれた。
彼女と話していると、心が少しずつ軽くなっていくのがわかった。
ある日、成香は僕に、療養所の外に出てみないかと誘った。
「外の世界は、とても美しいんです。きっと、あなたも気に入るはず。」
僕は迷ったが、成香の強い勧めもあり、外に出てみることにした。
療養所の外には、美しい庭園が広がっていた。
色とりどりの花が咲き乱れ、小鳥たちがさえずっていた。
「綺麗でしょう?」成香は嬉しそうに言った。
「…ええ。」
僕は、久しぶりに美しい景色を見た。
今まで、自分はどれだけ多くのものを見逃してきたのだろうか。
庭園を散歩しているうちに、僕は少しずつ、過去の記憶を取り戻し始めた。
最初はぼんやりとした断片だったが、次第に鮮明になっていった。
僕は、一人の女性と結婚していた。
彼女はとても美しい人だったが、次第に僕に対して暴力的になっていった。
言葉の暴力、肉体的な暴力…。
僕は、耐えきれず、逃げ出した。
そして、自ら命を絶ったのだ。
焼身自殺…それが僕の死因だった。
僕は、自分の愚かさに愕然とした。
なぜ、もっと早く逃げなかったのか?
なぜ、誰かに相談しなかったのか?
「…辛かったですね。」成香は、僕の肩にそっと手を置いた。
「…はい。」
僕は、自分の過去を成香に話した。
彼女は、一言も遮らず、ただ静かに聞いてくれた。
「あなたは、よく頑張りましたね。」成香は言った。「もう、自分を責めないでください。」
成香の言葉に、僕は涙が止まらなかった。
僕は、初めて、誰かに理解してもらえた気がした。
それから、僕は少しずつ、死んだ事を受け入れられるようになった。
過去は変えられない。でも、未来は変えられる。
僕は、死後の世界で、新しい人生を始めることに決めた。
成香のおかげで、僕は再び生きる希望を見つけることができた。
療養所での生活は、辛いこともあったが、決して無駄ではなかった。
僕は、ここで、本当に大切なものを見つけたのだ。
数年後、僕は療養所を出て、死後の世界にある小さな町に引っ越した。
成香も、僕の隣に家を建ててくれた。
僕たちは、お互いを支え合いながら、穏やかな日々を送っている。
時々、夢を見る。
現世に残してきた息子の夢だ。
彼は、今頃どうしているだろうか?
元気でいるだろうか?
僕は、息子の幸せを願っている。
たとえ、この世界から見守ることしかできなくても…。
ある夜、僕は激しい胸騒ぎを覚えた。
息子に、何か良くないことが起ころうとしている。
僕は、慌ててベッドから飛び起きた。
そして、夢の中で、息子に叫んだ。
「死ぬな!生きろ!生きて、幸せになってくれ!」
ハッと目が覚めた。
激しい動悸が、まだ止まらない。
僕は、成香に全てを話した。
彼女は、僕の手を握りしめて言った。
「大丈夫。きっと、息子さんは大丈夫よ。」
僕は、成香の言葉を信じることにした。
そして、いつか、息子と再会できる日を信じて、生き続ける。
それが、僕の新しい人生の目標なのだから。
(数十年後…)
公園のベンチで、老人が一人、静かに目を閉じている。
その顔は穏やかで、安らかな眠りに落ちているようだった。
隣には、同じように年老いた女性が寄り添っていた。
二人は静かに手を取り合い、夕日を眺めていた。
それは、死後の世界で結ばれた、永遠の愛の物語。
そして、過去の受容と未来への希望が織りなす、再生の物語でもあった。