Drama
14 to 20 years old
2000 to 5000 words
Japanese
真夏の蝉の音が、数学オリンピックの選考会場に嫌というほど響き渡る。僕は、瀬川 悠真(セガワ ユウマ)、17歳。数列と格闘することだけが、僕の存在意義だった。
幼い頃から数学に没頭し、他人との交流を避けてきた。唯一の例外は、小学校からの親友、高橋 健太(タカハシ ケンタ)だった。互いに全てを分かち合い、支え合う関係だと信じていた…あの時までは。
健太は明るく社交的で、誰からも好かれる人気者だった。僕は彼のそばにいることで、ほんの少しだけ世界と繋がっているような気がしていた。
だが、いつからだろうか。健太の笑顔が、僕には苦しく感じるようになったのは。彼の成功が、僕の数学への情熱を削り取っていくように感じた。
ある日、僕は衝動的に健太に依存してしまった。勉強のこと、進路のこと、些細な悩みまで、全て彼に委ねてしまったのだ。「僕には健太しかいないんだ」と、そう縋り付いた。
健太は困惑しながらも、僕を支えようとしてくれた。だが、僕の依存は日に日にエスカレートし、彼を束縛するようになっていった。
そして、あの日…。「悠真、ごめん。もう無理だ」という健太の言葉が、僕の心臓を抉り取った。
健太は僕から離れていき、僕は再び孤独の淵に突き落とされた。あの時、失ったのは親友だけではなかった。世界を信じる心、他人を愛する気持ち、そして何より、自分自身を愛する心を失ってしまったのだ。
それ以来、僕は他人との関係を極度に恐れるようになった。誰も信じることができず、誰とも深く関わることができない。
再び数学だけが、僕の心の拠り所となった。だが、かつてのように純粋な情熱を傾けることはできなくなっていた。それは、ただの現実逃避だった。
そして現在。僕は、数学オリンピックの選考会場にいる。合格すれば、世界への道が開かれる。だが、喜びよりも不安が胸を締め付けた。
控室の隅で、僕は膝を抱えて震えていた。ふと、視線を感じて顔を上げると、そこに立っていたのは、一人の少女だった。
彼女の名前は、宮本 凛(ミヤモト リン)。僕と同じ選考会に参加している高校生だった。
凛は、静かに僕の隣に腰を下ろした。「緊張してますか?」彼女の声は、驚くほど優しかった。
「私もです。でも、ここまで来れただけでも、凄いことですよね」凛は、そう言って微笑んだ。
その笑顔に、僕は一瞬、息を呑んだ。どこか諦念を含んだ、でも力強い笑顔だった。
「宮本さんは、どうして数学オリンピックを目指しているの?」僕は、思わず尋ねた。
凛は、少し俯いた。「数学だけが、私を自由にしてくれるから」
彼女の言葉に、僕は共鳴した。数学は僕にとっても、自由と救済の象徴だった。
選考会が始まり、僕は問題に取り組んだ。だが、集中することができない。凛の言葉が、頭の中でこだましていた。
試験後、凛は僕に話しかけてきた。「あの、もしよかったら、一緒に帰りませんか?」
僕は、戸惑った。他人と関わることへの恐怖が、再び湧き上がってくる。だが、凛の瞳は、真っ直ぐに僕を見つめていた。
「…いいよ」僕は、小さく答えた。それは、ほんの僅かな、でも確かな一歩だった。
帰り道、僕と凛は、数学のこと、将来のこと、そしてお互いの過去について語り合った。彼女は、僕が抱える孤独と苦しみを、そっと受け止めてくれた。
凛もまた、過去に辛い経験をしていた。彼女は、恋愛で深く傷つき、人間不信に陥っていたのだ。
「人は、傷つけ合う生き物だと思ってた。でも、悠真くんと話していると、違うのかなって思える」凛は、そう言った。
凛の言葉に、僕は胸が締め付けられた。僕もまた、誰かを信じたいと、そう願っていたのだ。
その瞬間、僕は依存と恋愛の違いがわからなくなった。これは、本当に友情なのだろうか。それとも、心の隙間を埋め合う、依存なのだろうか…。
家に帰り、僕は自室に閉じこもった。押し寄せる感情の波に、飲み込まれそうだった。
過去のトラウマが蘇り、僕は無意識のうちに、自分の腕に傷をつけていた。自傷行為は、僕にとっての一種の儀式だった。痛みを感じることで、辛うじて自分が存在していることを確認していたのだ。
翌日、僕は数学オリンピックの結果発表を見に行った。結果は、二人とも不合格だった。
凛は、少しがっかりした様子だったが、すぐに笑顔を取り戻した。「まあ、こんなものですよね。でも、また頑張りましょう!」
僕は、凛の強さに圧倒された。彼女は、どんな困難にも立ち向かうことができる。僕とは違う。
「宮本さんは、凄いね」僕は、そう言った。「僕は、すぐに諦めてしまうから」
凛は、首を横に振った。「諦めたら、そこで終わりですよ。それに、悠真くんには、私にはない才能がある」
「数学に対する情熱、そして、優しさ。悠真くんは、きっと、誰かを幸せにできる人だよ」
凛の言葉は、僕の心に深く染み渡った。初めて、自分の存在意義を認められた気がした。
それから、僕と凛は、お互いを支え合いながら、数学の勉強を続けた。僕たちは、友情と呼ぶにはあまりに複雑で、恋愛と呼ぶにはまだ青すぎる、特別な関係を築いていった。
時々、過去のトラウマが蘇り、自傷衝動に駆られることもあった。だが、凛はいつも、僕のそばにいてくれた。彼女の言葉と笑顔が、僕を救ってくれた。
僕もまた、凛を支えようと努力した。彼女の抱える苦しみを理解し、寄り添うことで、少しでも彼女の心が軽くなるようにと願った。
ある日、僕は凛に、過去の出来事を打ち明けた。健太との関係、そして、依存してしまったこと。
凛は、静かに聞いてくれた後、こう言った。「それは、辛かったですね。でも、悠真くんは、もう一人じゃない」
その言葉に、僕は涙が溢れてきた。初めて、誰かに全てを打ち明けることができた。初めて、誰かに頼ることができた。
僕たちは、お互いの傷を舐め合い、支え合いながら、少しずつ成長していった。友情なのか、恋愛なのか、それはまだ分からない。だが、確かなことは、僕たちは、お互いを必要としているということだ。
僕たちの関係は、まだ始まったばかりだ。この先、何が起こるか分からない。それでも、僕たちは、共に歩んでいけると信じている。歪んだ螺旋は、少しずつ解け始めている。
そして、いつの日か、この依存にも似た関係が、真実の恋愛へと昇華することを、僕は願っている。
僕らはそれぞれの過去を乗り越えて、やっと前に進むことができるのだ。僕の数学はまた違う光を放つだろう。
いつか二人で数学オリンピックに出よう。次は合格してみせる。
そうすれば、世界は変わって見えるだろう。僕たちだけの世界が。