歪んだ鏡に映るセカイ

Drama 14 to 20 years old 2000 to 5000 words Japanese

Story Content

春の柔らかな陽光が、数学研究会の部室に差し込んでいた。机に突っ伏しているのは、高校三年生の加藤 悠真。窓から見える桜並木にも、今は何の興味も湧かなかった。
「…また、だめだった…」
目の前には、びっしりと数式が書き込まれたノート。何度解いても、答えに辿り着けない難問に、悠真は苛立ちを隠せない。
「ゆうくん、大丈夫?」
背後から聞こえた優しい声に、悠真は顔を上げた。そこに立っていたのは、同じ数学研究会に所属する、二年生の桜井 莉子だった。
莉子は、いつも悠真のことを気にかけてくれる。勉強だけでなく、日々の生活のことまで。
「莉子…ごめん、また心配かけた…」
「ううん、全然。ゆうくんが頑張ってるの、ちゃんと見てるから」
莉子はそう言って、悠真の肩にそっと手を置いた。その温もりが、悠真の心をわずかに和らげる。
悠真は、幼い頃から数学に特別な才能を発揮していた。周りの大人たちは、彼を「天才」と呼んだ。しかし、その才能が、いつしか悠真を孤独にした。
他の生徒たちは、悠真の数学の才能を羨む一方で、どこか偏見の目で見ているようだった。「どうせ、天才には僕らの気持ちなんてわからないんだろう」という声が、聞こえてくる気がした。
孤独の中で、悠真はますます数学にのめり込んでいった。 数学だけが、彼を裏切らない、唯一の世界だった。
しかし、高校に進学すると、 数学の難易度は格段に上がり、悠真は次第に壁にぶつかるようになった。かつては容易に解けたはずの問題が、まるで巨大な壁のように、彼の前に立ちはだかる。
そんな悠真を支えたのが、莉子だった。莉子は、数学の才能こそなかったものの、粘り強く、諦めない性格だった。悠真が問題に詰まると、莉子はいつも根気強く付き合い、一緒に答えを探してくれた。
悠真は、いつしか莉子に依存するようになっていた。莉子がそばにいないと、何もできないような気がした。莉子がいなければ、彼はただの孤独な数学少年だった。
莉子もまた、悠真に依存していた。彼女は、平凡な自分に自信が持てず、 数学の天才である悠真の才能に憧れていた。悠真の役に立つことだけが、彼女の存在意義だと感じていた。
ある日、悠真はいつものように自傷行為に走ってしまった。莉子に迷惑をかけている罪悪感、 数学の才能が枯渇していく恐怖、将来への不安…様々な感情が、悠真の心を蝕んでいた。
カッターで左腕を切りつけ、溢れ出す血を見つめながら、悠真は静かに息を吐いた。痛みは、確かに彼の心を落ち着かせた。
莉子「ゆうくん…?どうかした?」
その時、莉子が部室に入ってきた。莉子は、悠真の腕の傷を見て、息を呑んだ。
「ゆうくん!それ、どうしたの!?」
悠真は、莉子の問いかけに答えられなかった。ただ、 自傷行為を見られてしまったことに対する、激しい羞恥心に苛まれた。
莉子は、悠真の腕にそっと触れ、優しく声をかけた。「痛かったね…苦しかったね…」
莉子の言葉を聞いて、悠真の目に涙が溢れてきた。彼は、まるで子供のように、莉子の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。
「莉子…ごめん…ごめん…」
「謝らないで。ゆうくんは、何も悪くない」
莉子は、悠真を優しく抱きしめ、背中をさすった。その時、悠真はふと思った。これは、ただの依存なのだろうか?それとも… 恋愛なのだろうか?
初めて莉子に会ったのは、高校の入学式の日だった。人見知りの悠真は、上手くクラスに馴染めず、一人で図書室にいた。そこに現れたのが、明るく元気な莉子だった。
「こんにちは!私、桜井莉子って言います。よかったら、一緒に数学研究会に入らない?」
莉子の笑顔に惹かれ、悠真は数学研究会に入部を決めた。それ以来、莉子はいつも悠真のそばにいて、彼を支え続けてくれた。
莉子の存在は、いつしか悠真にとって、なくてはならないものになっていた。しかし、それがただの依存なのか、それとも恋愛なのか、悠真には分からなかった。
あの日以来、莉子は毎日、悠真の家に通うようになった。彼女は、悠真の話を根気強く聞き、一緒に食事をし、一緒に勉強をした。
莉子の献身的なサポートのおかげで、悠真は少しずつ落ち着きを取り戻していった。 自傷行為も減り、数学の勉強にも再び意欲が湧いてきた。
ある日の夕暮れ時、悠真と莉子は、いつものように河原を散歩していた。
「莉子…いつも、ありがとう」
悠真は、照れくさそうに言った。
「どういたしまして。私、ゆうくんの役に立てて、嬉しいんだ」
莉子は、嬉しそうに微笑んだ。
その時、悠真は意を決して、莉子に尋ねた。「莉子にとって、僕はどんな存在なの?」
莉子は、少し戸惑った様子で、答えた。「ゆうくんは、私にとって…大切な人だよ」
「大切な人…友達として?」
「ううん…友達以上、家族未満…かな?」
莉子の言葉に、悠真は胸が締め付けられるような思いがした。莉子は、彼のことを大切に思っている。それは分かっていた。しかし、それは 恋愛感情ではないのかもしれない。
その夜、悠真は眠れなかった。莉子のことばかり考えていた。彼女の笑顔、彼女の声、彼女の温もり…。
悠真は、自分が莉子に恋をしていることに、ようやく気が付いた。 依存ではなく、恋愛だと理解したのだ。
しかし、その感情を莉子に伝える勇気は、悠真にはなかった。彼女に拒絶されるのが怖かった。今の関係が壊れてしまうのが怖かった。
数日後、数学研究会の合宿が行われた。合宿先は、山奥にある古民家だった。参加者は、悠真と莉子、そして数人の数学研究会のメンバーだった。
夜、みんなで花火をした後、悠真と莉子は二人きりで、星空の下にいた。
「星が綺麗だね」
莉子が言った。
「うん…」
悠真は、莉子の横顔を見つめた。彼女の長い髪が、風になびいていた。その姿は、まるで星のように美しかった。
「莉子…あのさ…」
悠真は、意を決して口を開いた。しかし、言葉は喉につかえて、出てこなかった。
「どうしたの?」
莉子が、心配そうに尋ねた。
「…やっぱり、何でもない」
悠真は、結局、自分の気持ちを伝えることができなかった。その夜も、彼は眠れなかった。後悔と絶望が、彼の心を締め付けた。
翌朝、事件が起きた。莉子が、突然倒れたのだ。
「莉子!莉子!」
悠真は、莉子を抱き起こし、必死に呼びかけた。しかし、莉子は意識を失ったままだった。
救急車が呼ばれ、莉子は病院に搬送された。悠真は、病院の待合室で、ただ祈ることしかできなかった。
数時間後、医師が悠真に告げた。「桜井さんは、過労とストレスによる心身症です。しばらく入院が必要でしょう」
悠真は、自分のせいで莉子が倒れてしまったのだと悟った。彼は、莉子に依存し、彼女の優しさに甘えすぎていた。その結果、莉子の心を蝕んでしまったのだ。
「ごめんなさい…莉子…僕のせいで…」
悠真は、泣きながら謝った。
数週間後、莉子は退院した。しかし、彼女は以前とは別人のように、元気がなくなっていた。
「ゆうくん…もう、会わない方がいいと思う」
莉子は、静かに言った。
「え…?どうして?」
「私は、ゆうくんにとって、良くない存在なんだと思う。私は、ゆうくんの自立を妨げているだけだ…」
「そんなことない!莉子は、僕にとって…」
「さよなら」
莉子は、悠真の言葉を遮り、背を向けて歩き去った。悠真は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
莉子がいなくなった後、悠真は再び孤独になった。しかし、今度の孤独は、以前とは違っていた。彼は、莉子を失った悲しみ、そして、彼女を傷つけた後悔を抱えていた。
悠真は、莉子の言葉を思い出し、自立することを決意した。彼は、 数学の勉強に打ち込み、 数学者になるという夢を叶えるために、ひたすら努力した。
数年後、悠真は、名門大学の数学科に進学した。彼は、 数学の世界で才能を開花させ、 数学者としての道を歩み始めた。
ある日、悠真は学会で、かつての莉子と再会した。莉子は、 数学とは全く関係のない、福祉の仕事についていた。
「莉子…元気だった?」
悠真は、声をかけた。
「うん、元気だよ。ゆうくんこそ、 数学者になったんだね。すごいね」
莉子は、微笑んだ。
「莉子のおかげだよ。莉子がいなかったら、今の僕はなかった」
悠真は、心からそう思った。莉子は、彼の依存心を打ち砕き、 自立への道を教えてくれた。そして、 数学者になるという夢を叶えるための勇気を与えてくれたのだ。
「ありがとう、莉子」
「どういたしまして」
悠真と莉子は、互いに微笑み合った。彼らの間には、かつてのような依存関係は存在しなかった。しかし、二人の間には、深い絆が残っていた。それは、 恋愛とは違う、人間としての強い繋がりだった。
悠真は、莉子に別れを告げ、再び 数学の世界へと足を踏み入れた。彼は、 数学者として、そして一人の人間として、成長し続けていくことを誓った。歪んだ鏡に映っていたセカイは、もうそこにはなかった。