歪んだ鏡の中の迷路

Drama 14 to 20 years old 2000 to 5000 words Japanese

Story Content

私は数学が好きだった。数字は嘘をつかないから。人生の曖昧さや感情の複雑さとは違って、答えはいつも一つ。白か黒か。正解か不正解か。私にとって、それは唯一の安定だった。
高校2年生の秋。窓の外はどんよりとした空模様で、校庭の銀杏の木だけが鮮やかな黄色を主張している。いつものように数学の問題集に向かっていた私、水野 雫の日常は、ある転校生の登場によって音を立てて崩れ始めた。
彼の名は、依存樹。少し変わった名前だが、顔立ちは整っていて、どこか憂いを帯びた瞳が印象的だった。彼は自己紹介で「絵を描くのが好きです」と短く言っただけで、あとは何も語らなかった。
最初の接点は、数学の授業だった。彼は数学が苦手らしく、困った顔で問題とにらめっこしていた。見かねた私は、勇気を出して「もしよかったら、教えてあげようか?」と声をかけた。
それが始まりだった。放課後、私は彼に数学を教えるようになった。最初はぎこちなかった会話も、回数を重ねるごとに自然になっていった。彼も少しずつ心を開いてくれるようになり、絵の話や、恋愛に関するちょっとした悩みなども話してくれるようになった。
私は彼に惹かれていった。彼の繊細さ、脆さ、そして時折見せる子供のような笑顔に、私は心を奪われていった。でも、私はそれを口に出すことはできなかった。私はただの数学教師役。それ以上でも以下でもない。
ある日、彼が自傷行為をしているという噂を耳にした。最初は信じられなかった。でも、彼の腕に巻かれた包帯を見た時、それが真実だと悟った。
私はいてもたってもいられなくなり、彼に直接聞いてみた。「…それ、どうしたの?」
彼は視線を彷徨わせ、俯いた。「…ちょっと、転んで…」
「嘘だ。それ、自傷だよね?」私は冷静さを装いながら言った。でも、心臓は激しく脈打っていた。
彼は何も言わなかった。ただ、肩を震わせ、静かに泣き始めた。
私は彼を抱きしめた。彼が泣き止むまで、ずっと。彼の体は細く、壊れてしまいそうだった。
その日から、私は彼を依存しないように、距離を置くように心がけた。彼のためには、それが一番良いと思ったから。でも、彼のことを考える時間が減ることはなかった。むしろ、依存を断ち切ろうとすればするほど、彼のことを考えてしまうようになった。
彼は変わらずに絵を描き続け、コンクールで入賞するなど、目覚ましい活躍を見せるようになった。でも、彼の瞳からは、以前のような輝きは消えていた。それはまるで、空っぽの器のようだった。
私は、自分が彼を傷つけてしまったのではないか、と後悔した。もし、あの時、彼を抱きしめる代わりに、彼の自傷行為を止めることができていたら、何か違っていただろうか?
卒業式の日。私は彼に手紙を書いた。感謝の気持ちと、謝罪の言葉と、そして、秘めた想いを綴った手紙を。でも、渡すことはできなかった。卒業式の後、彼はどこかへ引っ越してしまったから。
数年後、私は数学教師になった。教壇に立つ私の目に映るのは、かつての彼のような、脆くて繊細な少年少女たちの姿だった。
私は、彼らが同じ過ちを繰り返さないように、数学の知識だけでなく、生きるための知恵や、人を愛することの大切さを伝えていきたいと思う。たとえそれが、歪んだ鏡の中の迷路のような人生だとしても。
私は今でも時々、彼のことを思い出す。彼が今、どこで、何をしているのか。そして、彼の瞳に、再び輝きが戻っていることを願っている。
そして、もし、いつか、彼と再会することができたなら、あの時言えなかった想いを伝えたい。恋愛感情ではなく、人間として依存していたと。私が恋愛依存の区別もつかない子供だったことを詫びたい。私はあの時彼を救うことができたのだろうか。今でも答えは出ない。きっと、これからも出ないだろう。数学のように、明確な答えを求めることはできないのだから。
しかし、私は知っている。過去の過ちは消えない。けれど、過去から学び、未来を変えることはできる。私はそれを信じている。
今日もまた、私は教壇に立つ。未来を担う若者たちに、数学の素晴らしさと、生きることの喜びを伝えながら。