死後の療養所と、閉ざされた心の行方

Drama 21 to 35 years old 2000 to 5000 words Japanese

Story Content

気が付くと、僕は白い天井を見上げていた。ここはどこだろう? 最後に見た光景は、燃え盛る炎だったはずだ。僕は… 死んだのか?
「おはようございます、ショウさん」
声の方を見ると、白衣を着た女性が優しく微笑んでいる。「ここは、死後の世界の療養所です」
僕は呆然とした。療養所? 死後に、療養所? それは一体…
「あなたは、この世界で新たな生を歩むか、転生するかを選ぶことができます。しかし、多くの方が、まずこの場所で心の傷を癒していくことを選びます」
心の傷… 確かに、僕は生きている時にたくさんの傷を抱えていた。でも、死んだら楽になると思っていたのに…
療養所での生活は、生きる世界とほとんど変わらなかった。食事をし、眠り、誰かと話す。ただ一つ違うのは、僕がもう死んでいるということだ。
僕はすぐに自分の部屋に引きこもった。他の住人との交流を避け、窓の外を眺める日々。生きている時からそうだったけれど、僕は孤独が好きだった。いや、好きなのではなく、孤独しか知らなかったのかもしれない。
気が付けば、8年の月日が流れていた。8年間、僕は誰とも話さず、部屋から一歩も出なかった。
そんなある日、突然部屋のドアがノックされた。
「あの…ショウさん、少しだけお話してもいいですか?」
声の主は、ナリカと名乗った。彼女は僕よりも少し年下くらいだろうか。優しい瞳と、柔らかい笑顔が印象的だった。
僕は無視しようと思った。いつものように、ドアを開けずにやり過ごそうと。
「もし、迷惑でしたら、すぐに帰ります。でも… あなたのことが、少しだけ気になったんです」
彼女の声には、嘘がないように感じられた。僕は、戸惑いながらも、ドアを少しだけ開けた。
「…何ですか?」
ナリカは、少し驚いた顔をした後、すぐに微笑んだ。「少しだけ、お話しませんか? コーヒーでも飲みながら」
僕は、躊躇した。8年間、誰とも話していなかったのだ。上手く話せる自信もない。
「…僕は、上手く話せません」
「大丈夫ですよ。私がたくさん話しますから」
ナリカの強引さに押され、僕は結局、彼女とコーヒーを飲むことになった。
彼女は、僕の過去について何も聞かなかった。ただ、死後の世界での生活や、彼女自身のことを話してくれた。
ナリカは、死因を聞いてこない人だった。療養所の人は、みんな当たり前のように死因を聞いてきた。なぜ死んだのか、どんな死に方をしたのか。聞かれたくなかった。死因を思い出すのは、僕にとって酷く苦痛なことだったから。
「ショウさんは、何か好きなことはありますか?」
僕は、しばらく考えてから答えた。「…絵を描くのが、好きでした」
「素敵ですね! よかったら、今度私に絵を見せてください」
その日から、ナリカは毎日僕の部屋に来るようになった。最初は戸惑っていた僕も、次第に彼女との会話を楽しめるようになっていった。
ナリカのおかげで、僕は8年ぶりに自分の部屋から出るようになった。療養所の庭を散歩したり、他の住人と少しだけ話したりするようになった。
ある日、ナリカは僕に、療養所のイベントに参加するように勧めてきた。
「ショウさん、今度のイベントは、絵画展なんです。ぜひ、ショウさんの絵を出品してみませんか?」
僕は、迷った。人前に絵を出すのは、とても勇気がいることだった。
「…自信がありません」
「大丈夫ですよ。きっと、みんなショウさんの絵を気に入ってくれるはずです」
ナリカの言葉に勇気づけられ、僕は、絵画展に出品することを決意した。
久しぶりに絵筆を握ると、心が落ち着いた。僕は、自分が描きたいものを、自由に描いた。
絵画展当日、僕は緊張で体が震えていた。自分の絵が、どのように評価されるのか、不安でたまらなかった。
しかし、僕の心配は杞憂に終わった。僕の絵は、多くの人々から賞賛されたのだ。
「あなたの絵は、とても心に響きますね」
「色の使い方が、とても美しいです」
僕は、自分の絵が認められたことが、本当に嬉しかった。そして、ナリカに心から感謝した。
「ありがとう、ナリカ。君のおかげで、僕はもう一度、絵を描く喜びを思い出すことができた」
ナリカは、微笑んだ。「それは、ショウさんの才能があったからですよ」
絵画展をきっかけに、僕は少しずつ過去と向き合うことができるようになっていった。
そして、ある日、僕はナリカに、自分の死因を話すことを決意した。
「…僕は、焼身自殺をしたんです」
ナリカは、驚いた様子もなく、ただ静かに僕の言葉を聞いていた。
「…息子を、残したまま」
涙が溢れてきた。後悔、自責の念、そして何よりも、息子への愛情… 色々な感情が、僕の胸の中で渦巻いていた。
ナリカは、僕を優しく抱きしめた。「辛かったですね… とても、辛かったんですね」
僕は、ナリカの温もりに包まれながら、泣き続けた。
少しずつ、僕は自分死んだことを受容し始めていた。そして、死因となった出来事も。受容する、というよりは、「思い出せる」ようになってきたのだ。封印していた記憶が、ゆっくりと解き放たれていくように。
生きていた頃の僕は、仕事で大きな失敗をして、借金を抱え、全てを失ってしまった。妻にも逃げられ、一人息子のタケルだけが、僕の生きる希望だった。
しかし、僕はタケルを十分に愛してやることができなかった。自分のことで精一杯で、彼の気持ちを理解しようともしなかった。
ある日、僕はタケルに酷い言葉を言ってしまった。「お前なんか、いなければ良かったんだ」
その言葉が、タケルの心を深く傷つけてしまったことは、容易に想像できた。
そして、その夜、僕は、タケルを残したまま、死んだのだ。
「…ごめん、タケル… 本当にごめん」
ナリカは、僕の手を握りしめた。「もう、自分を責めないでください。タケルさんは、きっとあなたの気持ちを分かってくれます」
数年後、僕は、療養所での生活にも慣れ、穏やかな日々を送っていた。
しかし、心のどこかには、常にタケルのことが引っかかっていた。彼は今、どうしているだろうか? 元気に生きているだろうか?
ある日、療養所の管理人が僕を訪ねてきた。
「ショウさん、あなた宛に、メッセージが届いています」
メッセージ? 誰からだろう? 不思議に思いながら、僕はメッセージを受け取った。
メッセージは、現実世界からの通信だった。そして、送り主は、僕の息子、タケルだった。
メッセージには、タケルの現在の状況と、僕への感謝の言葉が綴られていた。
「父さん… あの時、父さんに酷いことを言ってしまって、ごめんなさい。でも、僕は父さんのことが、ずっと大好きでした。そして、今でも大好きです。父さんがいなくなって、僕は本当に寂しかった。でも、父さんが残してくれた愛を胸に、僕は精一杯生きています」
「父さんがいなくなってから、僕は絵を描き始めました。父さんの才能を受け継いだのかな、なんて思っています。いつか、父さんのように、素晴らしい絵を描けるように、頑張ります」
「父さん、ありがとう。そして、さようなら。僕は、いつか父さんのいる場所に、必ず行きます」
最後の言葉に、僕は愕然とした。彼は、僕の後を追おうとしているのか?
僕は、いてもたってもいられなくなった。今すぐ、タケルに連絡を取り、彼の考えを止めなければならない。
「管理人さん! なんとかして、タケルにメッセージを送ってください! 彼を止めなければ! 死なせたくない!」
管理人は、困惑した表情を浮かべながらも、僕の願いを聞き入れてくれた。
そして、僕は、タケルに渾身のメッセージを送った。
「タケル! 死ぬな! 絶対に死ぬな! 生きて! 生きて、素晴らしい人生を送ってくれ! お前は、俺の希望だ! お前がいなくなったら、俺は…」
「お前には、お前の人生がある! 俺の分まで、精一杯生きろ! それが、俺の願いだ!」
僕は、タケルがメッセージを受け取ってくれることを、ただ祈るばかりだった。
その後、タケルからの返信はなかった。しかし、僕は信じていた。タケルは、きっと生きていてくれる。そして、いつか、素晴らしい画家になるだろうと。
僕は、これからも、この死後の療養所で、タケルの幸せを祈りながら、穏やかに暮らしていく。そして、いつか再会できる日を、心待ちにしながら…。
この受容は、終わりではなく、新たな始まりなのだから。