Drama
21 to 35 years old
2000 to 5000 words
Japanese
気が付くと、見慣れない白い天井が僕の視界に広がっていた。ここは…どこだ?
最後に覚えているのは、目の眩むような光と、熱い風の記憶だけ。まさか…。
僕はEPR97809、通称ショウ。生前はしがないプログラマーだった。死後の世界にいる、ということを理解するのに、そう時間はかからなかった。
周囲はどこまでも白く、無機質な廊下が続いている。人の気配はほとんどない。ただ、かすかに機械音だけが聞こえてくる。
しばらく歩くと、受付のような場所に着いた。そこにいた女性が、事務的な口調で告げる。
「あなたは療養所に配属されます。ここでは、生前の記憶を整理し、死後の世界に適応するための治療を受けます。」
療養所…まるで病院のような場所だ。案内された個室は、殺風景なほど簡素だった。窓はなく、壁はコンクリート打ちっぱなし。唯一の彩りは、小さな観葉植物だけだった。
僕はベッドに倒れ込んだ。これから、どうすればいいのだろう…。
それから8年が過ぎた。8年もの間、僕は療養所の個室に閉じこもっていた。食事は配給されるし、特に困ることはない。ただ、生きている心地がしなかった。
転生することもなく、僕はただ死後の世界を彷徨い続けている。まるで幽霊のように。
死んだら楽になると思っていたのに、現実は違った。死後の世界には、死後の世界なりの苦しみがある。それは、死にたくても死ねないという絶望的な事実だ。
個室に差し込む人工的な光を浴びながら、僕は過去を振り返っていた。僕の人生は、いつも孤独だった。
物心ついたときから、両親はいつも仕事で忙しく、僕に構う余裕はなかった。学校では、友達とうまく馴染めなかった。いつも一人で、図書館で本を読んでいるのが好きだった。
大人になってからも、状況は変わらなかった。会社では、周囲とのコミュニケーションが苦手で、孤立していた。結婚願望はあったものの、女性と話すことすら億劫だった。
そんな僕にとって、プログラミングだけが心の拠り所だった。コードを書いているときは、孤独を忘れられた。僕は、プログラムの中に自分の世界を築き上げていった。
しかし、それも長くは続かなかった。ある日、会社で大きなプロジェクトが始まった。納期は厳しく、プレッシャーは増すばかり。僕は、次第に精神的に追い詰められていった。
眠れない日々が続き、食欲もなくなった。精神安定剤が手放せなくなった。それでも、僕はプログラムを書き続けた。それが、僕の存在意義だと信じていたから。
ある日、いつものように個室で過ごしていると、ノックの音が聞こえた。こんな時間に誰だろうか?
ドアを開けると、そこに立っていたのは、見慣れない女性だった。彼女は、穏やかな笑みを浮かべている。
「こんばんは、ショウさん。私は成香(なりか)と言います。療養所のカウンセラーをしています。」
カウンセラー…そんな人がいるとは知らなかった。僕は、訝しげな表情で彼女を見た。
「ええ。あなたは8年間も個室に閉じこもっていると聞きました。少し、お話しませんか?」
僕は、一瞬躊躇したが、断る理由もなかった。どうせ、暇を持て余していたのだ。
成香は、部屋に入ると、僕の正面に腰を下ろした。彼女の瞳は、優しさに満ち溢れていた。
「ショウさんは、死後の世界に馴染めないようですね。」
「…当たり前だ。こんな世界、誰が馴染めるというんだ?」
「辛い…?僕はずっと、辛かった。生きているときも、死んでからも。」
僕は、堰を切ったように、自分の過去を語り始めた。両親のこと、友達のこと、仕事のこと…全てを。
成香は、何も言わずに、ただ静かに僕の話を聞いてくれた。時折、相槌を打ち、僕の気持ちを理解しようとしてくれた。
話し終えると、僕はどっと疲れた。しかし、同時に、どこか心が軽くなったような気がした。
「ショウさん、あなたはまだ、自分を受け入れられていないのですね。」
「あなたは、自分が死んだという事実を受け入れられていない。だから、死後の世界で彷徨い続けているのです。」
僕は、言葉を失った。成香の言葉は、僕の心の奥底に突き刺さった。
「まずは、過去と向き合うこと。自分の死因を思い出すこと。そして、自分を許すこと。」
その時、頭の中に、鮮烈な光景が蘇った。炎、煙、そして…絶望。
それから、僕は少しずつ変わり始めた。成香とのカウンセリングを重ねるうちに、僕は過去と向き合うことができるようになった。
僕は、自分の死因を受け入れ始めた。それは、容易なことではなかった。罪悪感、後悔、そして…愛。様々な感情が、僕の心を揺さぶった。
「ショウさんは、息子さんのことをとても大切に思っていたのですね。」
「ああ…そうだ。僕は、息子を愛していた。しかし、それ以上に、自分を愛することができなかった。」
僕は、息子への手紙を書くことにした。死後の世界から、息子に届くことはないだろう。それでも、僕は書きたかった。
手紙には、僕の過去、後悔、そして…息子への愛が綴られていた。書き終えたとき、僕は涙が止まらなかった。
ある日、僕は決心した。8年間閉じこもっていた個室から、外に出ることを。
ドアを開けると、そこには、眩しいほどの光が差し込んでいた。僕は、ゆっくりと深呼吸をした。新鮮な空気が、肺を満たしていく。
廊下を歩くと、見慣れない景色が広がっていた。療養所の中庭には、色とりどりの花が咲き乱れていた。人々は、楽しそうに談笑していた。
僕は、ベンチに腰を下ろすと、目を閉じた。暖かな日差しが、僕の頬を撫でる。
僕は、生きていた。たとえ、それが死後の世界であろうとも。
療養所での生活に慣れてきた頃、僕は、現実世界の様子を知る機会を得た。療養所には、特別なモニターがあり、それを通して、生前の関係者の様子を見ることができるのだ。
僕は、自分の息子を探した。モニターに映し出されたのは、大人になった息子の姿だった。
息子は、僕に似て、少し物静かな青年になっていた。彼は、一人暮らしをしているようだ。仕事は、僕と同じプログラマーをしていた。
僕は、息子の姿を見て、胸が締め付けられるような思いだった。彼は、僕がいなくなってからも、懸命に生きていたのだ。
しかし、その時、僕は異変に気付いた。息子の表情が、どこか暗いのだ。彼の目は、希望を失っているように見えた。
そして、次の瞬間、僕は愕然とした。息子が、大量の睡眠薬を手にしていたのだ。
僕は、モニターに向かって叫んだ。「やめろ!やめてくれ!」
しかし、僕の声は、モニターを通して息子に届くことはない。僕の声は、ただ死後の世界に響き渡るだけだ。
その時、僕は、初めて心の底から願った。「生きてほしい。生きてくれ…。」
僕は、膝から崩れ落ちた。どうすればいい…?僕は、何をすればいいんだ?
背後から、成香の声が聞こえた。彼女は、僕の肩に手を置いた。
「あなたは、まだ息子さんのことを諦めるべきではありません。きっと、息子さんにあなたの思いは伝わります。」
僕は、成香の言葉を信じた。僕は、自分の思いを、息子に届けようと決意した。
僕は、自分の心を込めて、最後のメッセージを送った。それは、言葉にならない叫びだった。生きてほしい。生きて、幸せになってほしい。それが、僕の最後の願いだ。
そして、再びモニターが映し出された時、息子は睡眠薬を置いた。そして空を見上げ、一筋の涙を流した。
その後、彼は新しい生活を始めた。大学に戻り、友人を作り、ボランティア活動にも参加するようになった。彼の顔には笑顔が戻り、未来への希望が灯った。
僕は療養所を離れ、この世をさまようことになった。しかし、後悔はない。息子の未来を守れたから。死後の世界は、必ずしも絶望ではない。僕の人生はまだ終わっていない。
療養所で得た経験と成香への感謝を胸に、僕は歩き続ける。