灰色の空に咲く希望の花

Drama 21 to 35 years old 2000 to 5000 words Japanese

Story Content

気がつくと、僕は白い天井を見上げていた。ここはどこだろう? まるで病院の一室だ。いや、病院そのものかもしれない。
「…ここは…死後の世界、ですか?」
声を発してみると、自分の声なのにどこか他人事のように聞こえた。体は妙に軽く、まるで重力から解放されたようだ。しばらくぼんやりしていると、優しい声が聞こえてきた。
「ああ、目を覚まされましたか。EPR97809さん。あなたはもう大丈夫ですよ」
看護師らしき女性が、笑顔で僕に近づいてきた。「私は成香と言います。ここでのあなたの担当です」
成香さんは丁寧に、僕が死後の世界に来たこと、そしてここが療養所であることを教えてくれた。療養所…まるで、死んだ人間のための病院だ。
「あなたは転生することもなく、ここに辿り着きました。死因は…今は思い出さなくてもいいんですよ。ゆっくり、時間をかけて受け入れていきましょう」
死因…そうか、僕は死んだんだ。でも、どうして死んだのか、まるで思い出せない。頭の中は霧がかかったようにぼんやりとしている。
「…僕は、どうしてここにいるんですか? 僕は…何をしていたんだろう」
「あなたは少し疲れてしまっただけです。ここでは、ゆっくりと心と体を休めてくださいね」
それからというもの、僕は療養所で毎日を過ごした。食事の時間、散歩の時間、他の患者との交流…でも、僕はどうしても心を開けなかった。まるで厚い壁が、僕を外界から隔てているかのようだった。
他の患者たちは、楽しそうに話したり笑ったりしている。でも、僕にはそれが遠い世界の出来事のように感じられた。僕はいつも一人、部屋の隅でうずくまっていた。
いつの間にか、療養所に来てから8年もの月日が流れていた。8年間、僕はほとんど部屋から出ることなく、誰とも話さず、ただ時間だけが過ぎていくのを待っていた。死んだら楽になると思っていたのに、現実は違った。死後の世界にも、生きている時と同じように、いや、それ以上に苦しみがあった。
(生きているときは、いつか死ぬことを知って生きられる。しかし死んだ後は、死にたくても死ねない…この残酷な現実を受け入れることが、こんなにも苦しいなんて)
ある日、いつものように部屋でうずくまっていると、コンコンとドアがノックされた。「EPR97809さん、いらっしゃいますか? 私、成香です」
返事をせずにいると、成香さんが少し躊躇いがちにドアを開けた。「あの…少しだけ、お話しませんか?」
僕は無言で首を横に振った。すると、成香さんは優しく微笑んで言った。「…少しだけでもいいんです。あなたはずっと一人で抱え込んでいる。それじゃ、いつまで経っても楽になれませんよ」
その言葉に、僕は少しだけ心が動いた。8年間、誰とも話さなかったのに…彼女の言葉は、僕の心の奥底に響いた気がした。
「…話すことなんて、何もありません」
ようやく絞り出した声は、まるで錆び付いた機械のようだった。それでも、成香さんは諦めずに僕を見つめた。「無理に話す必要はありません。ただ、私があなたのそばにいるだけでもいいんです」
それからしばらく、成香さんは毎日僕の部屋を訪れるようになった。最初は無言で、ただそばに座っているだけだった。でも、日が経つにつれて、少しずつ話しかけてくれるようになった。
彼女は自分のこと、療養所のこと、他の患者のこと…他愛のない話をたくさんしてくれた。最初はうんざりしていた僕も、いつの間にか彼女の話に耳を傾けるようになっていた。
ある日、成香さんが僕に言った。「EPR97809さん、外に出てみませんか? お庭には、綺麗な花がたくさん咲いていますよ」
僕は首を横に振った。「…僕は、外には出たくありません。どうせ、何も変わらない」
「そんなことありませんよ。外の世界は、あなたが思っているよりもずっと綺麗なんです。それに…あなたがずっと部屋に閉じこもっているのを、心配している人がたくさんいるんです」
心配…誰が僕のことを? 僕は誰からも必要とされていないと思っていた。それが、僕の孤独の根源だった。
それでも、成香さんは諦めなかった。彼女は毎日、僕に外の世界のことを話してくれた。花のこと、鳥のこと、風のこと…彼女の話を聞いているうちに、僕の心に少しずつ変化が生まれてきた。
ある日のこと、僕は意を決して言った。「…少しだけ、外に出てみようかな」
成香さんは、満面の笑みを浮かべて言った。「本当ですか!? やった! きっと、あなたも外の世界を好きになると思いますよ」
久しぶりに部屋から出ると、眩しい光が目に飛び込んできた。目に慣れるまで、しばらく目を閉じていた。そして、ゆっくりと目を開けると…そこには、信じられないほど美しい景色が広がっていた。
色とりどりの花が咲き乱れ、鳥たちが楽しそうに歌っている。風が優しく頬を撫で、太陽が暖かく僕を照らしてくれた。僕は、生まれて初めて見る景色に、言葉を失った。
「…綺麗だ」
自然と、言葉が口をついて出た。成香さんは、僕の隣で嬉しそうに微笑んでいた。「そうでしょう? 私は、この景色が大好きなんです」
それからというもの、僕は毎日、成香さんと一緒に外を散歩するようになった。彼女は花の名前や鳥の種類など、色々なことを教えてくれた。僕は少しずつ、死んだことを受容し始めていた。
ある日の散歩中、成香さんが言った。「EPR97809さん、少しだけ過去の話をしてみませんか? もちろん、無理にとは言いません。でも…あなたは、過去に囚われたままでは、前に進めないと思うんです」
僕は黙り込んだ。過去…僕には、思い出したくない過去があった。それは、とても辛く、悲しい記憶だった。
「…僕は…過去のことを、思い出したくありません」
「分かります。でも…あなたは、それを乗り越えなければならないんです。自分の過去と向き合い、死因を受け入れること…それが、あなたが幸せになるための第一歩なんです」
成香さんの言葉は、重く、そして優しかった。僕は覚悟を決めて、過去を語り始めた。途切れ途切れの言葉で、震える声で…。
僕は、生前は平凡なサラリーマンだった。妻は病気で亡くなり、一人息子のを育てていた。光は、僕にとってかけがえのない存在だった。でも…僕は、仕事のストレスと妻を失った悲しみで、心を病んでしまった。
ある日、僕は衝動的に、息子を残して焼身自殺をしてしまった。気がついたときには、もう手遅れだった。僕は、光を一人残して、死んでしまったのだ。
「…僕は…息子を、一人残して…死んでしまったんです…」
涙が止まらなかった。僕は、自分の犯した罪の重さに、打ちひしがれた。成香さんは、何も言わずに僕を抱きしめてくれた。
「あなたは…とても辛かったんですね。でも、もう大丈夫です。あなたは一人ではありません。私たちが、あなたを支えます」
成香さんの温かさに触れ、僕はようやく、自分が独りぼっちではないことに気づいた。8年間閉ざしていた心が、少しずつ開かれていくのを感じた。
それからしばらく、僕は療養所でリハビリを続けた。他の患者との交流、カウンセリング…そして、成香さんとの散歩。少しずつ、僕は死因受容し、過去を受容し、未来への希望を見出し始めていた。
そんなある日、僕は療養所の庭で、一人の男性と出会った。彼は、僕よりも少し若いぐらいだった。彼は、悲しそうな目で空を見上げていた。
「…あなたは…何か悩んでいるんですか?」
声をかけると、彼は驚いたように僕を見た。「…あなたは、EPR97809さんですか? 噂には聞いていました。8年間、部屋に引きこもっていた人だと」
僕は苦笑いをした。「…もう、昔の話です。あなたは、何か悩んでいるんですね?」
彼はしばらくためらっていたが、意を決したように語り始めた。「…実は…僕は、生きているんです」
生きている…? どういうことだろう。「…どういう意味ですか?」
「僕は…あなたの息子なんです。です」
光…! 彼は、僕の息子だったのか! 信じられない気持ちで、僕は彼を見つめた。彼は、あの時の幼い光ではなく、立派な大人になっていた。
「…光…どうして、君がここに?」
「あなたに会いに来たんです。ずっと、あなたのことを探していました。あなたが、どうして死んでしまったのか…それを知りたくて…」
光は、涙をこらえながら、そう言った。僕は、彼に自分の死因を、全て話した。焼身自殺をしたこと、彼を一人残して死んでしまったこと…
光は、黙って聞いていた。彼の目は、悲しみと怒りで満ち溢れていた。僕は、彼に謝ることしかできなかった。「…ごめん…光…本当に、ごめん…」
光は、ゆっくりと首を横に振った。「…あなたは…苦しかったんですね。ずっと…一人で…」
彼は、僕を強く抱きしめた。彼の温かさに触れ、僕は再び涙が溢れてきた。「…ごめん…本当に…ごめん…」
それからというもの、僕と光は、療養所で一緒に過ごすようになった。光は、僕に色々なことを話してくれた。彼の仕事のこと、彼の友達のこと、そして…彼がどんなに僕のことを愛していたか…
僕は、光の話を聞いているうちに、自分が犯した罪の深さを痛感した。僕は、息子を愛していたはずなのに、自分の弱さのせいで、彼を深く傷つけてしまったのだ。
光との時間は、僕にとってかけがえのないものだった。彼は、僕に生きる希望を与えてくれた。彼と出会えたことで、僕はようやく、過去の呪縛から解放され、未来へと踏み出すことができるようになった。
しかし、ある日、光は僕に衝撃的なことを告げた。「…お父さん…僕は…あなたに会いに来るために…少し、無理をしてしまいました…」
「…無理…? どういうことだ?」
光は、悲しそうな目で僕を見つめた。「…僕は…あなたに会うために…自分の命を…少しだけ、削ってしまいました…」
僕は愕然とした。「…そんな…まさか…」
「ごめん…お父さん…でも…後悔はしていません。あなたに会えて…本当に…嬉しかった…」
光の言葉を聞き、僕は激しい後悔に苛まれた。僕は、息子を救うことができなかった。それどころか、彼をへと追い詰めてしまったのだ。 「やめろ!!光!!」
現実世界で光が後追い自殺しようとしたその瞬間、僕は叫んでいた。死後の世界から、必死に、必死に叫んだ。 「死ぬな!!光!!生きろ!!」
声は届かない。当然だ。しかし、僕は叫び続けた。光に、生きていて欲しかった。光には、幸せになって欲しかった。 僕の声が届いたのか、光は自殺を踏みとどまったらしい。僕の声が届かなくても、誰かの言葉が、光の心を救ったのかもしれない。
光…君は、僕の希望だ。だから…どうか、生きてくれ…
僕は、光が生きている限り、生き続ける。それが、僕の罪滅ぼしであり、僕の生きる意味なのだ。