硝子の心と雨上がりの虹

Drama 14 to 20 years old 2000 to 5000 words Japanese

Story Content

雨の音が、冷たいコンクリートに響き渡る。イヤホンから流れる音楽も、どこか憂鬱なメロディを奏でていた。高校2年生の湊(みなと)は、俯きながら人混みを縫うように歩いていた。今日の出来事が、重い鉛のように胸に沈んでいる。
美術の授業中、描いていた絵を先生に酷評された。「感情が全くこもっていない。ただの模倣だ」と。湊は、いつもそうだ。自分の感情を表現するのが苦手だった。むしろ、感情を表に出すこと自体が怖かった。
家に着くと、いつものように玄関にが一本だけ置かれている。母親は仕事で遅い。湊は一人、静まり返った家の中に入った。自分の部屋のドアを開けると、窓の外の雨脚が一段と強くなっていた。
カッターナイフが、目に留まる。無意識のうちに、それを手に取っていた。左腕の古い傷跡が、鈍く光っている。湊は、まるで儀式のように、新しい傷を刻み始めた。痛みだけが、自分が生きている証だと感じられるから。自傷行為は、湊にとって一種の麻薬だった。
その日の夜、湊はSNSで知り合った女性、(かえで)と会う約束をしていた。待ち合わせ場所の駅前には、すでに楓が立っていた。彼女は、画面で見るよりもずっと綺麗だった。長い髪が、夜風に揺れている。
「ごめんね、くん。待った?」の声は、優しくて温かかった。湊は、緊張して上手く言葉が出てこない。ただ、小さく首を横に振るのが精一杯だった。
は、の様子を気遣うように、「どこか行きたいところある? くんの行きたいところに付き合うよ」と言った。
湊は、咄嗟に言葉が出なかった。今まで誰かと一緒に何かをする、という経験がほとんどなかったからだ。結局、二人は近くのカフェに入った。
カフェは温かい光に包まれていた。壁には、ジャズのレコードジャケットが飾られている。二人は、窓際の席に座った。外はまだ雨が降っている。
くんは、何か悩んでいることとかある?」は、の目をじっと見つめて言った。その真剣な眼差しに、湊はドキッとした。自分の内面を見透かされているような気がした。
は、自分のことを話すのが苦手だった。しかし、の優しい雰囲気に、少しずつ心が解き放たれていくのを感じた。美術の授業で先生に言われたこと、感情を表現するのが苦手なこと、そして自傷行為のこと…。ぽつりぽつりと、言葉を紡いでいった。
は、の言葉を静かに聞いていた。途中で遮ることもなく、ただ黙って耳を傾けていた。そして、が話し終わると、そっと手を握って言った。
「辛かったね。くんは、頑張っているんだね」その一言で、湊の心のダムが決壊した。堪えていた涙が、溢れ出してきた。
は、の背中を優しくさすってくれた。その温もりに、湊は心の底から安堵した。今まで感じたことのない、温かい感情が胸を満たした。
カフェを出ると、雨は止んでいた。空には、薄っすらと虹がかかっている。二人は、並んで虹を見上げた。
「綺麗だね」が言った。は、頷いたと出会う前の自分だったら、きっと虹を見ても何も感じなかっただろう。しかし、今は違う。心が、少しだけ軽くなった気がした。
帰り道、LINEアカウントを教えた。「いつでも連絡してね」と。は、嬉しくて、何度も頷いた
その日から、は、毎日LINEやり取りをするようになった。学校であった出来事、好きな音楽、将来の夢…。些細なことから、深い悩みまで、様々なことを語り合った。
は、と話していると、心が安らいだ。今まで誰にも話せなかったことを、には素直に話すことができた。は、いつもの言葉を受け止めてくれた。決して否定することなく、ただ優しく寄り添ってくれた。
しかし、の心には、ある不安が芽生え始めていた。それは、に対する依存心だった。がいなければ、何もできないのではないか、という恐怖に駆られるようになった。
ある日、は、に電話をかけた。しかし、は電話に出なかった。何度もかけ直したが、繋がらない。湊は、焦り始めた。LINEを送っても、既読にならない。
不安に駆られた湊は、いてもたってもいられなくなり、楓の家の近くまで行った。しかし、楓の家の明かりは消えていた。湊は、暗闇の中で、ただ立ち尽くしていた。
その時、湊の心には、黒い感情が渦巻いていた。それは、嫉妬だった。楓が、他の誰かと一緒にいるのではないか、という疑念が頭から離れなかった。
気がつくと、湊はカッターナイフを手にしていた。左腕に、再び傷を刻み始めた。痛みは、一時的に不安を忘れさせてくれた。しかし、すぐに後悔の念が押し寄せてきた。
翌日、学校でを見つけた。は、駆け寄って問い詰めた
「昨日、どうして電話に出なかったの? LINEも既読にならなかった。どこに行っていたの?」
は、悲しそうな目でを見つめて言った。「ごめんね。くん。昨日、少し体調が悪くて、寝ていたの。心配かけてごめんね」
は、の言葉を信じることができなかった。本当に体調が悪かったのか、それとも嘘をついているのか。疑念が、湊の心を蝕んでいった。
は、に対する依存心と、疑念との間で苦しみ続けた。そんなある日、相談してきた。
「私、将来の夢があって。大学で福祉について学びたいの。困っている人を助ける仕事がしたい」は、目を輝かせて言った。
は、複雑な気持ちになった。が自分のから離れてしまうのではないか、という不安が込み上げてきた。しかし、同時に、の夢を応援したいという気持ちも芽生えた。
「すごいね。楓ちゃんなら、きっと素敵な福祉士になれるよ」湊は、笑顔で言った。しかし、心の奥底には、大きな葛藤があった。
その夜、湊は一人、悩んでいた。楓に対する依存心を克服しなければ、自分は変われない。の夢を応援するためにも、自立しなければならない。
湊は、自傷行為をやめることを決意した。そして、自分の感情と向き合うことを始めた。ノートに自分の気持ちを書き出したり、美術の先生に相談したりした。
時間はかかったが、湊は少しずつ変わっていった。楓に対する依存心も、徐々に薄れていった。自分の感情表現することにも、少しずつ慣れていった。
そして、が大学進学のため、地元離れる日が来た。は、まで見送りに行った。
「頑張ってね。楓ちゃんなら、きっと素敵な福祉士になれるよ」は、笑顔で言った。は、の言葉に頷き力強く手を握った。
くんも、頑張ってねくんなら、きっと自分のやりたいことを見つけられるよ」
電車が発車した。湊は、が見えなくなるまで、手を振り続けた
駅のホームには、一人だけが残された。しかし、湊は、孤独ではなかった。心には、希望の光が灯っていた。
あれから数年後。は、画家になっていた。自分の感情を、キャンバスに自由に表現している。は、福祉士として、困っている人々のために働いている
二人は、お互いの応援し合いながら、それぞれの道を歩んでいる。そして、たまに連絡を取り合い、お互いの成長喜び合っている。
雨上がりには、今日も美しい虹がかかっている。湊は、その虹を見上げ、微笑んだ。あの苦しかった日々は、もう過去のものとなった。との出会いが、人生大きく変えたのだ。
二人が初めて出会ったあの日、依存なのか恋愛なのか、にはわからなかった。しかし、今ならわかる。依存は、相手縛り付けようとする感情。恋愛は、相手幸せ願う感情。湊がに抱いているのは、感謝と、そして友情という名の、温かい光だった。