虚数と証明

Drama 14 to 20 years old 2000 to 5000 words Japanese

Story Content

駅のホーム、午後の光が数学の参考書を照らしていた。手元の問題集は微分積分。今日解くのは、難問として名高い、ある証明問題だった。
イヤホンからは、ピアノの旋律。それは彼女、ユキの声だった。彼女の演奏を聴くのが、僕、カイトにとって、日々の癒しだった。彼女は特別な存在だった。依存という言葉が頭をよぎる。いや、そんな言葉では表せない、もっと複雑な感情だ。
初めてユキと出会ったのは、高校の入学式だった。ピアノの音色に惹かれて音楽室に迷い込んだ僕は、そこでユキに出会った。儚げな雰囲気と、ピアノを奏でる時の力強さ。そのギャップに、僕は一瞬で心を奪われた。
「ねえ、カイト。今日も数学?」
駅の改札で、ユキが待っていた。いつもの優しい笑顔が、僕を安心させる。
「ああ。ちょっと難しい証明問題に苦戦してて」
「見せて? 私も数学、少しはわかるよ」
ユキは、僕の参考書を覗き込んだ。彼女の長い髪が、頬をかすめる。鼓動が早まるのを感じた。これは、恋愛なのだろうか。
放課後、僕たちはいつものカフェに向かった。ユキはカフェオレ、僕はブラックコーヒー。窓際の席が、僕たちの指定席だった。
「ここ、落ち着くんだよね」
ユキが微笑む。その笑顔を見るために、僕はここにいるのかもしれない。そう思った。
ユキは、ピアノの才能に恵まれていた。コンクールでは常に上位。将来は音大に進んで、ピアニストになるのが夢だと言っていた。
僕は、そんなユキを心から応援していた。彼女の夢が叶うなら、僕はなんだってする。そう思っていた。
しかし、現実は厳しかった。ユキの家は裕福ではなく、音大に進むためには奨学金が必要だった。しかし、奨学金を得るためには、コンクールで優勝する必要があった。
ユキは、プレッシャーに押しつぶされそうになっていた。練習に身が入らず、焦りばかりが募っていた。僕は、そんなユキを見ているのが辛かった。
「大丈夫だよ、ユキ。君ならできる。僕は、君の才能を信じている」
僕は、ユキを励ました。しかし、僕の言葉は、彼女の心には響かなかったようだった。
ある日、ユキは僕に言った。「カイト、私、もうダメかもしれない」
その言葉を聞いた瞬間、僕の心臓が止まるかと思った。ユキが、絶望している。彼女を救わなければ、僕は生きていけない。
「ユキ、僕にできることがあったら、なんでも言って。君のためなら、僕はなんだってする」
僕は、必死でユキに訴えた。しかし、ユキは首を横に振った。「ありがとう、カイト。でも、もう、どうしようもないの」
その日以来、ユキは学校を休みがちになった。連絡も途絶え、僕は不安で押しつぶされそうだった。
ユキに会いたい。彼女の声を聞きたい。僕は、いてもたってもいられず、ユキの家に向かった。
ユキの家の前で、僕は立ち尽くした。ドアを開ける勇気がなかった。彼女に会ったら、何を言えばいいのだろうか。僕は、何も思いつかなかった。
意を決してドアをノックすると、ユキの母親が出てきた。やつれた表情だった。
「ユキは…?」
僕は、震える声で尋ねた。
「ユキは、部屋に…」
ユキの母親は、そう答えると、僕を部屋に案内した。
ユキの部屋は、薄暗かった。カーテンが閉められ、昼間だというのに、薄暗かった。
部屋の隅で、ユキがうずくまっていた。顔色は悪く、生気がない。まるで、人形のようだった。
「ユキ…!」
僕は、ユキに駆け寄った。しかし、ユキは顔を上げようともしなかった。
「ユキ、どうしたんだ? 何があったんだ?」
僕は、ユキの肩を揺さぶった。しかし、ユキは何も言わなかった。ただ、小さく震えているだけだった。
ふと、ユキの手首に、包帯が巻かれているのが目に入った。僕は、息をのんだ。まさか…。
僕は、ユキの腕をつかんだ。包帯をゆっくりと外すと、そこには、無数の傷跡があった。自傷行為の跡だった。
僕は、言葉を失った。ユキが、こんなことをしていたなんて、全く知らなかった。僕は、ユキのことを何もわかっていなかった。
「ユキ…! なぜ…! なぜ、こんなことを…!」
僕は、ユキに問い詰めた。しかし、ユキは何も答えなかった。ただ、涙を流しているだけだった。
僕は、ユキを抱きしめた。彼女の身体は、酷く震えていた。僕は、彼女の痛みを、少しでも和らげたかった。
「大丈夫だよ、ユキ。僕がいるから。君は一人じゃない」
僕は、ユキを抱きしめながら、そう囁いた。しかし、僕の言葉は、彼女の心には届かなかったようだった。
ユキは、僕から逃れるように、身体を離した。そして、僕を見つめた。その目は、冷たく、絶望に満ちていた。
「カイト、もう放っておいて。私、もう、生きていたくない」
ユキは、そう言うと、僕に背を向けて、部屋の奥に消えていった。
僕は、その場に立ち尽くした。ユキの言葉が、僕の胸に突き刺さった。僕は、彼女を救うことができなかった。僕は、彼女を失ってしまった。
ユキの言葉が、頭の中でリフレインする。「生きていたくない」と彼女は言った。僕に、何ができたのだろうか。僕は、どうすれば彼女を救えたのだろうか。
その後、僕は、ユキに寄り添うことを決意した。彼女が拒絶しても、諦めなかった。毎日、彼女の家を訪れ、話しかけた。彼女が再び心を開いてくれることを信じて。
しかし、現実は厳しかった。ユキは、依然として心を閉ざしたままだった。僕の言葉に耳を傾けることすらしなかった。僕は、無力感に苛まれた。
そんなある日、ユキの母親から電話がかかってきた。ユキが、自殺を図ったという知らせだった。僕は、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
病院に駆けつけると、ユキは集中治療室にいた。医師から、一命は取り留めたものの、依然として予断を許さない状況だと告げられた。僕は、無力感に苛まれながら、ユキの回復を祈った。
数日後、ユキは意識を取り戻した。僕は、すぐにユキの元に駆けつけた。
ユキは、ベッドに横たわっていた。顔色は依然として悪かったが、目には、少しだけ光が戻っていた。
「ユキ…!」
僕は、ユキの名前を呼んだ。ユキは、ゆっくりと目を開けた。そして、僕を見つめた。
「カイト…」
ユキは、か細い声で、僕の名前を呼んだ。その声を聞いた瞬間、僕の目から、涙が溢れ出した。
「ごめんね、カイト。迷惑をかけて…」
ユキは、そう言うと、目を閉じた。
「迷惑なんかじゃないよ、ユキ。君が無事でよかった」
僕は、ユキの手を握りしめた。ユキの手は、冷たかった。しかし、その冷たさが、僕の心を落ち着かせた。
それから、ユキは少しずつ回復していった。精神科医のカウンセリングを受け、薬物療法も始めた。僕は、毎日ユキを見舞い、彼女を励ました。彼女が再び笑顔を取り戻せるように。
ある日、ユキは僕に言った。「カイト、私、ピアノをもう一度弾きたい」
僕は、その言葉を聞いた瞬間、嬉しさで胸がいっぱいになった。ユキが、再び夢を持つことができた。彼女は、まだ、希望を捨てていなかった。
ユキは、リハビリに励んだ。指は思うように動かず、苦労することも多かった。しかし、彼女は決して諦めなかった。再びピアノを弾くために、懸命に努力した。
そして、ついに、ユキは再びピアノを弾くことができるようになった。彼女は、僕のために、一曲演奏してくれた。それは、以前僕がイヤホンで聴いていたあのピアノ曲だった。
ユキの演奏は、以前よりも力強さを増していた。彼女の感情が、音に乗って、僕の心に響いてきた。僕は、感動で涙が止まらなかった。
演奏が終わると、ユキは僕に微笑みかけた。その笑顔は、以前よりもずっと輝いていた。彼女は、困難を乗り越え、新たな自分を見つけたのだ。
僕は、ユキに心から感謝した。彼女は、僕に生きる意味を教えてくれた。彼女は、僕にとって、かけがえのない存在だった。
退院後、ユキは再び数学に興味を持ち始めた。彼女の数学の才能は、以前から知っていた。論理的な思考力、問題解決能力。それは、音楽にも通じるものがあるのかもしれない。
ユキは、大学で数学を専攻することにした。彼女は、新たな夢を見つけたのだ。僕は、彼女の夢を応援することを決意した。
ある日、ユキと二人で公園を歩いていた時、ユキは僕に言った。「カイト、私、ずっとあなたのことが好きだった」
その言葉を聞いた瞬間、僕は言葉を失った。ユキも、僕と同じ気持ちだった。僕たちの間には、依存だけではない、確かな恋愛感情があったのだ。
僕は、ユキを抱きしめた。彼女の温もりが、僕の心を暖めた。僕たちは、お互いを必要としていた。僕たちは、お互いにとって、かけがえのない存在だった。
その後、僕たちは、お互いを支え合いながら、それぞれの夢に向かって歩んでいった。ユキは数学者として、僕は彼女を支える存在として。困難はあったが、決して諦めなかった。お互いを信じ、愛し合いながら、未来を切り開いていった。
僕たちが初めて出会った時、これは依存なのか、恋愛なのか悩んだ。今ならわかる。僕たちの関係は、依存から始まり、恋愛へと昇華したものだったのだ。そして、その根底には、互いを尊重し、支え合う気持ちがあった。それこそが、僕たちの愛の形だった。
僕とユキは、数年後、結婚した。僕たちは、お互いの夢を応援し合いながら、幸せな家庭を築いている。困難を乗り越えた僕たちの絆は、何よりも固く、そして美しい。
夕焼け空の下、ユキが数学の問題を解いている。僕はその隣で、彼女の演奏を聴いている。あの日のピアノの音色は、今も僕の心を癒してくれる。
これからも、僕たちは二人で、それぞれの夢に向かって歩んでいく。そして、お互いを愛し合いながら、共に生きていく。
「カイト、見て。この証明、やっと解けた」ユキが笑顔で僕に数学の証明を見せる。
「すごいな、ユキ」僕は心からそう思う。彼女の努力と才能に、そして、彼女が隣にいてくれることに。
僕たちは、これからも、互いに依存しすぎることなく、しかし、互いを支え合い、恋愛感情を大切にしながら、共に生きていく。あの日の自傷行為は、ユキにとって過去の傷跡だが、それは同時に、彼女が乗り越えてきた強さの証でもある。
虚数は存在しない数、でも、証明においては不可欠な概念。僕たちの人生もそうだ。辛い過去、乗り越えたからこそ、今の僕たちが存在する。そして、その証明こそ、未来へと繋がる。
夕焼けが二人を包み込む。明日も、また新しい証明が始まるだろう。