虚数に咲く花

Drama 14 to 20 years old 2000 to 5000 words Japanese

Story Content

桜が舞い散る4月、新しい学年が始まった。僕は、高木 蓮(たかぎ れん)。進学校に通う高校二年生だ。数学だけが取り柄の、少し依存気質な男の子。
教室の窓際の席に座り、教科書を開いた。数式の羅列は、僕にとって音楽のように心地よかった。まるで、この世界を理解するための暗号のようだ。
しかし、周りの生徒たちは違った。数学の授業中も、退屈そうにしているか、内職をしている。優秀な生徒が集まるこの学校で、僕は異端だった。
「ねえ、蓮君。その数学の問題、教えてくれない?」
振り向くと、そこにいたのはクラスメイトの藤宮 雫(ふじみや しずく)だった。彼女はいつも笑顔で、明るく、クラスの中心にいるような存在だ。僕とは正反対だ。
「ああ、いいよ」
彼女に数学を教えるようになったのは、いつからだろうか。最初はただのクラスメイトだったけれど、次第に、彼女の笑顔を見ることが僕の一番の楽しみになっていった。
彼女は数学が苦手で、いつも僕に頼ってきた。その度に、僕は自分が彼女にとって必要な存在なのだと実感できた。その実感こそが、僕にとっては何よりも大切だった。
ある日の放課後、数学の勉強を終えた雫が、急に真剣な表情になった。
「蓮君、相談に乗ってほしいことがあるの」
彼女の口から出たのは、恋愛の悩みだった。好きな人がいるけれど、その気持ちを伝えられないという。
僕は、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。同時に、彼女の役に立ちたいという気持ちが、僕を突き動かした。
「僕でよければ、いつでも相談に乗るよ」
それから、雫は毎日僕に恋愛相談をするようになった。僕は、彼女の好きな人の話を聞きながら、自分がその相手ではないことに、深い絶望を感じていた。
しかし、彼女の笑顔を守りたいという気持ちが、僕を支えていた。僕は、彼女にとって、ただの相談相手でしかなかったとしても、それでも良かった。
ある日、雫が僕に言った。
「蓮君って、本当に優しいね。いつも私のことを気にかけてくれて、ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、僕は自分が彼女に依存していることに気づいた。彼女の優しさに、彼女の存在に、僕は完全に依存してしまっていた。
彼女が僕を必要としてくれることが、僕の存在意義だった。もし、彼女が僕を必要としなくなったら、僕はどうなってしまうのだろうか。
不安と恐怖に押しつぶされそうになりながら、僕は無理やり笑顔を作った。
「どういたしまして」
その夜、僕は自分の部屋で、カッターナイフを握りしめていた。自傷行為は、僕にとって現実逃避の手段だった。痛みを感じることで、辛い現実から一時的に逃れることができた。
雫の恋愛相談に乗ることは、僕にとって喜びであると同時に、苦痛でもあった。彼女の幸せを願う一方で、彼女が自分のものではないという事実に、耐えられなかった。
僕は、雫を愛していた。しかし、その気持ちは、決して彼女に伝えることができない。依存恋愛、その境界線は、僕にとって曖昧で、残酷だった。
次の日、学校に行くと、雫はいつも以上に明るい笑顔で僕に話しかけてきた。
「ねえ、蓮君! 私、好きな人に告白することにしたの!」
僕は、心臓が止まるかと思った。彼女の告白が成功することを願いながら、同時に、彼女が僕から離れていくことを恐れていた。
「そうなんだ。頑張って」
雫の告白の結果は、すぐに分かった。彼女は、満面の笑みで僕に報告してきた。
「私、OKもらっちゃった!」
その瞬間、僕の世界は崩れ去った。彼女は、僕のもとからいなくなってしまう。僕の存在意義は、失われてしまう。
僕は、何とか平静を装いながら、彼女に祝福の言葉を贈った。
「おめでとう」
その日から、雫は以前よりもさらに輝いて見えた。彼女は、幸せに満ち溢れていた。しかし、僕は違った。僕は、どん底に突き落とされたような気分だった。
僕は、彼女との関係を断ち切ることにした。彼女を見ているだけで、苦しくなるからだ。彼女の幸せを願う一方で、彼女への憎しみが、日に日に増していった。
学校を休みがちになり、数学からも遠ざかった。何もかもが嫌になり、ただひたすらに、自分の殻に閉じこもっていた。
そんなある日、父が心配して、僕に声をかけてきた。
「蓮、最近どうしたんだ? 元気がないみたいじゃないか」
僕は、父に自分の気持ちを打ち明けることにした。雫のこと、依存のこと、恋愛のこと、そして、自傷行為のこと。
父は、僕の話を静かに聞いてくれた。そして、最後にこう言った。
「蓮、お前はまだ若い。これからいくらでもやり直せる。辛いときは、いつでも父さんに相談してくれ」
父の言葉に、僕は少しだけ救われた気がした。しかし、完全に立ち直るには、まだ時間がかかるだろう。
僕は、自分の足で立ち上がり、一歩ずつ前に進んでいこうと決意した。雫との思い出を胸に、新しい自分を探して。
数日後、僕は久しぶりに学校に行った。すると、雫が僕のところへ駆け寄ってきた。
「蓮君! 最近どうしてたの? ずっと心配してたんだよ」
僕は、彼女の顔を見ることができなかった。しかし、彼女の優しい声に、少しだけ心が安らいだ。
「大丈夫だよ。少し体調を崩していただけだから」
「そう。無理しないでね。あ、そうだ! 今度、彼氏と一緒にご飯でも行かない?」
僕は、再び胸が締め付けられるような感覚を覚えた。しかし、今度は違った。嫉妬や憎しみではなく、ほんの少しの寂しさと、安堵感だった。
「いいよ。ぜひ」
僕は、彼女と友達として、再び付き合っていくことを決めた。過去の依存恋愛は、僕にとって苦い経験だったけれど、それもまた、僕の一部だ。
そして、僕は再び数学と向き合うことにした。数式は、相変わらず僕にとって心地よい音楽だった。しかし、以前とは違って、そこに雫の笑顔が重なって見えた。
僕は、数学者になるという夢を、諦めなかった。彼女への依存を乗り越え、自分の力で生きていくことを決意した。
公園のベンチに座り、参考書を開いた。数式が頭の中で踊り出す。新しい発見があるたびに、胸が高鳴った。夕焼け空の下、僕は新たな一歩を踏み出した。
その時、ふと、雫との初めての出会いを思い出した。図書館で偶然隣の席に座り、彼女が数学の問題に苦戦していた時。僕があれは依存だったのか、恋愛だったのか、今となってはもうわからない。
ただ、あの時、彼女の困った顔を見て、何かしてあげたいと思ったのは確かだ。そして、彼女の笑顔が、僕の心に光を灯してくれた。
夕焼けが終わり、空には星が瞬き始めた。僕は、参考書を閉じ、空を見上げた。数えきれないほどの星が、僕を見守っているようだった。
僕は、自分の道を歩んでいく。たとえ、それがどんなに困難な道だとしても。
そしていつか、数学の世界で、誰かの心の光となれるように。
そう、虚数の中にも、必ず美しい花は咲くのだから。