虚数の恋

Drama 14 to 20 years old 2000 to 5000 words Japanese

Story Content

高層ビルの窓から見下ろす景色は、いつもと変わらず灰色だった。東京の空は、いつも何かを隠しているように見える。僕、数学科に通う大学生の蒼太は、煙草に火をつけた。 数学だけが、僕の世界で唯一、絶対的な真実を示してくれる。それ以外は、すべてが曖昧で、不確かで、そして…痛みを伴う。
特に最近、痛みはひどくなっていた。 自傷行為は、僕にとっての一種の儀式だ。カッターの刃が肌を滑る感覚、滲み出る血の温かさが、複雑に絡み合った感情を一時的に麻痺させてくれる。 依存心、孤独、未来への不安…。
今日の講義はいつもより長く感じた。数学の教授は難解な数式を黒板に書き連ね、学生たちは必死にノートを取っている。しかし、僕の頭の中は数式で埋め尽くされるのではなく、一人の少女の顔でいっぱいだった。彼女の名前は、美咲。初めて会った日から、僕の生活は一変した。
初めて美咲に会ったのは、大学の図書館だった。彼女は、たくさんの本に囲まれ、難しい顔をして参考書を読んでいた。僕の得意な数学の本を。
「あの…もしよかったら、少しだけ手伝いますよ?僕、数学科の蒼太と言います」
彼女は驚いたように顔を上げ、少し戸惑った後、「あ、ありがとうございます。実は、この問題がどうしても解けなくて…」と、小さな声で言った。
そこから、僕たちの依存関係は始まった。美咲は、数学が苦手だったが、僕の教え方がわかりやすいと、いつも僕に質問してきた。僕は、彼女の質問に答えるのが楽しくて、時間があっという間に過ぎていった。まるで数学の難問を解くように、彼女の依存を満たす方法を夢中で探していた。
ある日、美咲は突然泣き出した。「私、蒼太君がいないと何もできない…依存してばかりで、本当にごめんなさい…」
僕は、彼女の涙を見て、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。これが依存なのだろうか?それとも、これは恋愛…? わからない。ただ、彼女の涙を拭いたい、抱きしめたい、そう強く思った。
「美咲…」僕は彼女の名前を呼んだ。「そんなことないよ。君はいつも頑張ってる。それに、僕だって、君に依存しているんだ」
嘘だった。少なくとも、全部が全部、嘘ではなかった。確かに僕は、美咲といることで、孤独から解放されていた。彼女の存在が、僕の灰色の世界に、ほんの少しの色を与えてくれていた。でも、僕の自傷行為は、彼女と出会ってからも続いていた。
美咲との関係が深まるにつれて、僕の葛藤も大きくなっていった。僕は、彼女に本当の自分を隠していた。 自傷の痕跡、数学以外の世界に対する絶望感、そして、誰にも言えない暗い過去…。
夏休みに入り、僕たちは二人で海に行った。眩しい太陽の下、美咲は楽しそうに笑っていた。僕は、そんな彼女の笑顔を見ているだけで、心が満たされるような気がした。
しかし、夜になると、不安が押し寄せてきた。星空の下、二人で話していると、美咲は突然言った。「蒼太君、私には何か隠していることがあるでしょう?」
僕は息を呑んだ。隠し通せると思っていた。彼女にはわからないと思っていた。でも、美咲は、僕の心の奥底にある闇を見抜いていた。
僕は、覚悟を決めて、自分の過去について、そして、自傷行為について、すべてを話した。話している間、美咲は何も言わずに、ただ静かに僕の話を聞いていた。
話し終えた後、沈黙が訪れた。僕は、彼女が僕を拒絶するだろうと思っていた。こんな暗い過去を持った人間と、一緒にいることはできないと、そう言うだろうと思っていた。
しかし、美咲は、ゆっくりと僕の手を握った。「辛かったね…今まで、ずっと一人で抱え込んでいたんだね…」
彼女の言葉に、僕は涙が止まらなくなった。初めて、誰かに理解してもらえた気がした。初めて、心が救われた気がした。
「蒼太君、私は君を依存しているかもしれない。でも、それはただの依存なんかじゃない。私は、君のことを…愛しているんだ」
美咲の言葉に、僕は言葉を失った。これが恋愛…? 今まで感じたことのない、温かい感情が、僕の胸を満たしていった。
「僕も…君のことを、愛している」
その日から、僕たちの関係は変わった。ただ依存しあうだけの関係から、支え合う関係へと。僕は、自傷行為を止める努力を始めた。美咲も、僕に依存するだけでなく、自分の夢を見つけようと頑張り始めた。
それでも、過去の傷跡は、簡単には消えなかった。時々、僕は、再び自傷行為に走りそうになることがあった。そんな時、美咲は、僕を強く抱きしめてくれた。
「蒼太君、大丈夫だよ。私が、ずっと一緒にいるから」
彼女の言葉が、僕の心を支えてくれた。僕は、美咲のためにも、過去を乗り越えなければならないと強く思った。
大学を卒業後、僕は数学者になるという夢を諦め、プログラマーになった。 数学への情熱は変わらないが、彼女と安定した生活を送ることを選んだのだ。
そして美咲は、大学院に進学し、心理学を専攻することにした。彼女は、かつての僕のように、心に傷を抱えた人々を救いたいと願っていた。
数年後、僕たちは結婚した。結婚式には、たくさんの友人や家族が来てくれた。美咲は、ウェディングドレス姿がとても美しかった。
式が終わった後、二人で静かに話した。「あの時、依存だと感じたのは、恋愛だったんだね」と、美咲は少し照れながら言った。
「ああ、きっとそうだろうな」と、僕は答えた。「あの時の僕たちは、お互いを必要としていた。そして、その必要性が、愛に変わったんだ」
僕たちは、これからも、たくさんの困難に立ち向かうだろう。しかし、お互いを支え合い、愛し合いながら、生きていくことができると信じている。
夕焼け空の下、僕は美咲の手を握りしめた。彼女の温もりが、僕の心を満たしていく。もう、孤独も、痛みも、怖くない。僕には、美咲がいる。そして、美咲には、僕がいる。
二人で支え合いながら、複雑で美しい数式を解くように、人生という難題を解き明かしていく。 数学のように完璧ではないけれど、愛という名の解を持つ、僕たちの物語は続いていく。