Drama
14 to 20 years old
2000 to 5000 words
Japanese
講堂のざわめきが、次第に小さくなっていく。照明が絞られ、壇上に立つ男、数学科の助教授、早乙女先生にスポットライトが当たる。
彼の端正な顔立ちは、少しばかり緊張の色を帯びていた。聴衆を見渡す視線は、自信に満ち溢れているはずなのに、どこか落ち着かない。特に、最前列に座る一人の少女、彼女——咲良の方へは、ほとんど向けられることがなかった。
早乙女は、難しい数式をホワイトボードに書き始めた。彼は長年、ある難題に取り組んでいた。虚数の、存在証明。誰にも解けない、とされている問題を、彼は必ずや解決してみせると、強く心に誓っていた。
講義後、咲良は早乙女の研究室を訪れた。「先生、今日の講義、とても興味深かったです」と、彼女は控えめに言った。早乙女は微笑んだが、彼女の目を見ようとはしなかった。
「ああ、ありがとう。君には難しいかもしれないけどね」早乙女の声は、いつもより少しだけ冷たく感じられた。
咲良は黙って、彼の背中を見つめていた。 彼女にとって、早乙女は特別な存在だった。 彼女が幼い頃から、彼は彼女の家庭教師であり、心の支えだった。彼がいなければ、今の彼女は存在しないだろう。しかし、彼はいつも、彼女を遠ざけるような態度をとるのだ。
それは、中学の頃から始まった。 彼女が少し大人になり、彼への感情が、尊敬だけではなく、何か別のものへと変わり始めた頃から。彼は、彼女を女性として見ないように、必死になっているように見えた。
ある雨の日、咲良は早乙女の研究室で、彼がリストカットをしているのを目撃してしまう。床には血痕が散らばり、彼の腕には赤く痛々しい傷跡が刻まれていた。
咲良は悲鳴を上げそうになるのを必死でこらえた。「先生…!いったい、何を…?」
早乙女は顔を青ざめ、狼狽した。「見、見なかったことにしてくれ!」彼の声は震えていた。
咲良は彼の腕を掴み、必死に止めた。「だめです!先生、どうしてこんなことを…!」
その時、早乙女は彼女を強く抱きしめた。「苦しいんだ… 苦しくて仕方ないんだ…」
早乙女は、彼女に全てを打ち明けた。数学者としてのプレッシャー、世間からの期待、そして、父親からの抑圧。彼は、完璧であることを強要され続けてきた。そして、彼女への複雑な感情。 彼女を愛している、けれど、それは許されないと。彼は、彼女の存在に依存しながら、同時に彼女を拒絶していたのだ。
咲良は、ただ涙を流すことしかできなかった。彼女は、彼の苦しみを理解しようとした。けれど、どうすることもできなかった。ただ、彼の温もりが、彼女の心を締め付けた。
あの時、初めて彼女は思った。これが依存なのだろうか、それとも恋愛なのだろうか?区別がつかなかった。
数日後、咲良は早乙女に手紙を渡した。「先生、私は先生を信じています。先生なら、きっと虚数の証明を完成させることができる。私は、ずっと先生のそばにいます」
早乙女は手紙を読み終えると、静かに彼女を見つめた。 彼の瞳には、迷いと希望が入り混じっていた。「咲良… ありがとう」
それから、早乙女は数学に没頭するようになった。彼は、まるで狂ったように数式を書き続けた。咲良は、毎日彼の研究室に通い、彼を支えた。彼女は、食事を作り、部屋を片付け、彼の心のケアをした。 彼女の存在が、彼の心の支えになっていた。
しかし、彼の自傷行為は、止まることはなかった。時折、彼女は彼の腕の新しい傷跡を見つけてしまう。その度に、彼女の心は深く傷ついた。
ある夜、早乙女はついに虚数の証明を完成させた。 彼は、彼女にその結果を見せた時、初めて心の底から笑った。「できた…!ついに、できたんだ!」
咲良は、彼の笑顔を見て、涙が止まらなかった。 彼女は、彼を抱きしめた。「おめでとうございます、先生!本当におめでとうございます!」
しかし、その時、早乙女は倒れた。彼は、過労とストレスで、倒れてしまったのだ。
病院で、早乙女は目を覚ました。 彼のそばには、咲良が寄り添っていた。「咲良… 心配かけたね」
咲良は、彼の手を握りしめた。「先生… もう、無理しないでください。虚数の証明ができたんだから、もう十分です」
早乙女は、彼女の瞳を見つめ、優しく微笑んだ。「ああ、わかってる。ありがとう、咲良。君のおかげだ」
退院後、早乙女は大学を辞め、咲良と共に小さな町に移り住んだ。 彼は、数学の研究からは身を引いたが、彼女と共に静かに暮らすことを選んだのだ。
ある日、彼らは、海辺を散歩していた。夕日が、海をオレンジ色に染めていた。早乙女は、咲良の手を握り、言った。「咲良… 私は、君を愛している。ずっと、愛していたんだ」
咲良は、涙を堪えながら、彼に微笑みかけた。「私も、先生を愛しています」
その瞬間、彼らは初めて、互いの気持ちが通じ合ったことを確信した。それは、依存でもなく、ただ純粋な恋愛だった。
しかし、彼らの幸せは長くは続かなかった。数年後、早乙女は病に倒れ、彼女の腕の中で息を引き取った。
早乙女が亡くなった後も、咲良は彼が教えてくれた数学の知識を活かし、教師として子供達に数学を教え続けた。そして、時折彼のことを思い出しながら、残りの人生を歩んでいく。 彼との思い出を胸に抱いて。
いつか、また会える日が来るのだろうか。彼女は、空を見上げ、そう呟いた。そして、彼女は彼との思い出を胸に、今日も数学の教鞭を執る。
数学とは、永遠に続く虚数のようなもの。彼との愛もまた、永遠に続くものなのだと信じて。