虚数の距離

Drama 14 to 20 years old 2000 to 5000 words Japanese

Story Content

窓の外は灰色の空が広がっていた。雨がしとしとと降り続き、街の喧騒を僅かに和らげている。僕は、数学オリンピックの強化合宿所にいた。優秀な生徒が集められ、難解な問題をひたすら解く日々。本来なら喜ばしいはずなのに、胸に重くのしかかるのは、言葉にできない閉塞感だった。
合宿所の自習室は静寂に包まれていた。蛍光灯の光が容赦なく机上を照らし、目の前の問題集の数字が嘲笑っているように感じた。数学は得意だった。幼い頃から数字に魅せられ、その秩序と美しさに惹かれてきた。しかし、最近は数学が苦痛でしかなかった。
理由は明白だった。彼女、美咲の存在だ。
美咲とは高校入学後、すぐに知り合った。彼女は明るく、誰からも好かれる人気者だった。僕はというと、数学以外に興味がなく、友達も少ない内向的な性格。そんな僕に、彼女は臆することなく話しかけてきた。
最初は戸惑った。なぜ、彼女が僕に? 彼女はいつも僕のそばにいて、数学のこと、将来のこと、他愛もないことまで、何でも話した。僕もまた、彼女に心を許し、次第に彼女なしではいられないようになっていった。
彼女は数学が苦手だった。いつもテスト前に僕に助けを求めてきた。僕は喜んで彼女に教えた。彼女の笑顔を見るのが好きだった。彼女が僕を必要としてくれることが嬉しかった。それが、依存の始まりだった。
合宿に参加して数日。美咲からの連絡は途絶えていた。今まで毎日、何通もメッセージをやり取りしていたのに。不安が募り、集中することができなかった。
昼食の時間、食堂で偶然、美咲を見つけた。彼女は友人たちと楽しそうに笑っていた。僕の姿に気づくと、少し驚いたような表情を見せたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「あ、タケル! どうしたの、こんなところに?」
「合宿だよ。美咲こそ、どうしてここに?」
「うん、ちょっと見学に。大学の進路相談会があるみたいで」
「そうか」
彼女は僕に一瞥をくれた後、すぐに友人たちの輪に戻って行った。僕は、まるで空気のような存在だった。心が冷たくなっていくのを感じた。
その夜、自習室で数学の問題を解いていたが、どうしても集中できなかった。美咲の笑顔が頭から離れない。彼女は僕なしでも楽しそうに生きている。僕は、彼女にとってただの数学の先生でしかないのか?
衝動的に、カッターナイフを取り出した。腕に走る痛みが、わずかに心を落ち着かせた。それは一種の儀式だった。絶望と孤独を紛らわせるための、自傷行為。
次の日、僕は合宿所を抜け出した。どうしても美咲に会いたかった。彼女に自分の気持ちを伝えなければ、このまま壊れてしまう気がした。
美咲の家の前で、僕は躊躇した。インターホンを押す勇気が出ない。彼女は今、何を考えているのだろうか。僕のことを必要としているのだろうか。もしかしたら、僕の存在を疎ましく思っているかもしれない。
意を決して、インターホンを押した。ドアが開いた。そこに立っていたのは、意外な人物だった。美咲の母親だった。
「タケル君、いらっしゃい。美咲なら、今病院にいるの」
「病院? 一体何があったんですか?」
美咲の母親は、沈痛な面持ちで語り始めた。美咲は、僕との関係に深く悩んでいたのだという。彼女は、僕の数学の才能を尊敬し、僕のそばにいることが好きだった。しかし、それは同時に、彼女自身を苦しめていた。彼女は、僕に依存している自分を恥じていた。自分の力で何もできない、ただ依存しているだけの自分が嫌だったのだ。
数日後、病院で美咲と再会した。彼女は憔悴していたが、目は澄んでいた。
「タケル、ごめんね」
「謝らないで。僕こそ、ごめん。君を苦しめていたなんて、知らなかった」
「私、タケルに依存してた。それは恋愛感情もあったかもしれないけど、それだけじゃなかった。私は、タケルの数学の才能に依存してた。タケルがいれば、何でも解決してくれると思ってた」
「僕は、君に必要とされていることが嬉しかった。でも、それが君を苦しめていたなんて」
「タケルは悪くない。悪いのは、依存してた私。これからは、自分の力で生きていきたい。自分の夢を見つけたい」
「僕も、数学だけじゃなく、もっと色々なことに興味を持ちたい。君ともっと対等な関係になりたい」
美咲は小さく頷いた。病室には、静かな時間が流れた。
退院後、美咲は以前のように明るく振る舞っていたが、以前とは少し違っていた。彼女は積極的に色々なことに挑戦し、自分の夢を探していた。僕はというと、数学への情熱は変わらなかったが、以前ほど数学依存することはなくなった。僕は、数学だけでなく、人間関係や社会についても学び始めた。彼女との関係も少しずつ変化していった。以前のような依存関係ではなく、お互いを尊重し、支え合う、対等な関係になっていった。
初めて会ったとき、これが依存なのか、恋愛なのだろうか? と悩んだ。恋愛に近かったのか、遠かったのか今でも分からない。あの時の僕は、恋愛を知らなかった。ただ、お互いが必要な存在だっただけだ。
月日が流れ、僕たちはそれぞれの道を歩み始めた。美咲は自分の夢を見つけ、海外留学を決めた。僕は大学に進学し、数学者になるための勉強を続けている。
空港で、美咲を見送った。彼女の目は、未来への希望に満ち溢れていた。僕は、彼女の背中を見送りながら、心の中でつぶやいた。
「さようなら、美咲。そして、ありがとう」
空は、青く澄み渡っていた。雨は上がり、太陽が眩しく輝いていた。