Drama
14 to 20 years old
2000 to 5000 words
Japanese
雨の音が、教室の窓を叩く。古びた校舎の片隅で、僕は数学の問題集に目を落としていた。冷たい雨は、まるで僕の心の奥底にある、拭いきれない不安を表しているようだった。
問題集の余白には、無数の自傷の痕が残っている。ペン先で引っ掻いた浅い傷跡は、消えない過去の記憶のように、僕の腕に刻み込まれていた。
高校三年生、春。進路希望調査票には、迷わず『数学者』と書いた。幼い頃から数字に魅せられ、難解な数式を解き明かす瞬間に、生きている実感を得ていた。
しかし、僕にはもう一つの現実があった。それは、隣に座る彼女、恋愛にも似た奇妙な依存関係で結ばれた、一ノ瀬 雫の存在だった。
雫は、太陽のように明るく、誰からも愛される存在だった。眩しすぎる笑顔は、いつも僕の心の暗闇を照らしてくれた。彼女がいなければ、僕はきっと、もっと深い孤独に沈んでいた。
初めて雫に会ったのは、高校入学式の翌日。教室の前で途方に暮れていた僕に、「どうかしたの?」と優しく声をかけてくれた。その瞬間、僕はまるで雷に打たれたかのように、彼女に心を奪われた。
「ありがとう」と小さな声で答えた僕に、雫はにっこりと微笑み、「困ったことがあったら、いつでも頼ってね」と言った。その日から、僕と雫の関係は始まった。
いつからだろうか、彼女に対する感情が、友情から恋愛へと変化していったのは。いや、もしかしたら、最初からそれは恋愛だったのかもしれない。ただ、僕にはそれを認める勇気がなかった。
なぜなら、僕にとって雫は、単なる恋愛対象以上の存在だったからだ。彼女は、僕の心の支えであり、生きる理由そのものだった。彼女がいなくなれば、僕はきっと、生きていけないだろう。
放課後、僕はいつものように、雫と一緒に駅へ向かっていた。夕暮れの空は、茜色に染まり、街全体を優しい光で包み込んでいた。
「ねえ、明日はどこかに行かない?」と、雫が屈託のない笑顔で言った。「何か見たい映画があるの。一緒に行ってくれる?」
「ああ、いいよ」と、僕は答えた。本当は、家で数学の問題を解きたかったけれど、雫の頼みを断ることはできなかった。
僕は彼女に依存していた。彼女の笑顔、声、仕草…その全てが、僕の心を支配していた。まるで操り人形のように、彼女の言いなりになってしまう自分が、情けなくて仕方なかった。
その日の夜、僕は自分の部屋で、自傷行為に及んだ。カッターナイフの刃先を、震える手で自分の腕に押し当てた。痛みだけが、僕が生きている証だった。
「どうして、こんなことを…」鏡に映る自分の顔は、憔悴しきっていて、まるで別人のようだった。僕は、いったい何と戦っているのだろうか。
過去の傷跡が、僕を苦しめていた。中学時代、僕は親友の田中と、極度の依存関係を築いてしまった。勉強も、遊びも、いつも一緒だった。まるで双子のように、片時も離れずに過ごした。
しかし、その関係は、長くは続かなかった。僕の依存は、徐々に田中を苦しめ始めた。彼は僕から逃げるように、別のグループに入り、僕を避けるようになった。
ある日、田中は僕に言った。「お前と一緒にいると、息が詰まるんだ。もう、うんざりだ」
その言葉は、僕の心を深く傷つけた。田中を失った僕は、人間関係を極度に恐れるようになった。誰かと親しくなることが、怖くて仕方なかった。
だから、雫との関係も、最初は恐る恐るだった。しかし、雫の優しさに触れるうちに、僕は徐々に心を開いていった。そして、いつしか彼女に、深い依存を抱くようになってしまった。
次の日、僕は雫と一緒に、映画館へ行った。上映されたのは、恋愛映画だった。スクリーンの中で繰り広げられる甘い恋愛模様を、僕は複雑な思いで見つめていた。
映画が終わってから、僕と雫は、近くのカフェでお茶を飲んだ。「どうだった?」と雫が尋ねた。「面白かった?」
「ああ、面白かったよ」と、僕は答えた。「でも、ちょっと現実離れしてるかな」
「そうかな?」と、雫は首を傾げた。「私は、ああいう恋愛って、素敵だと思うけど」
その時、僕は勇気を振り絞って、雫に言った。「あの…実は、君に言いたいことがあるんだ」
僕は、深呼吸をして、言った。「僕は、君のことが…好きだ」
沈黙が流れた。雫は、何も言わずに、僕を見つめ続けていた。まるで時間が止まってしまったかのように、静寂が僕たちを包み込んだ。
しばらくして、雫は口を開いた。「ありがとう。でも…ごめんなさい」
その言葉は、僕の心を貫いた。僕は、自分がフラれたことを悟った。しかし、不思議と悲しみは感じなかった。むしろ、心の奥底にあった、重苦しい何かが、少し軽くなった気がした。
「わかってる」と、僕は答えた。「僕たちは、友達のままでいよう」
雫は、涙をこぼしながら、僕に抱きついてきた。「ありがとう」と、彼女は何度も繰り返した。
その日から、僕と雫の関係は、少しずつ変化していった。 依存ではなく、互いを尊重し、支え合う、真の友情が芽生え始めた。
僕は、自傷行為をやめた。代わりに、数学の研究に没頭するようになった。数字の世界に身を置くことで、僕は再び生きる意味を見出すことができた。
そして、いつの日か、僕は、世界的な数学者になることを夢見て、日々努力を重ねていった。
過去の傷跡は、まだ癒えていない。しかし、僕はもう、一人ではない。雫というかけがえのない友達がいる。そして、僕には、数学という夢がある。
雨は、いつの間にか止んでいた。教室の窓から見える空は、晴れ渡り、希望に満ち溢れていた。僕は、新しい一歩を踏み出すために、教室を飛び出した。
長い間、僕は恋愛と依存を混同していたのかもしれない。彼女に対する気持ちは、恋愛感情を含んでいたかもしれないが、それだけではなかった。彼女の存在そのものが、僕の心の支えだった。そして、僕はその支えに、過剰に依存していた。
数学の研究に没頭する日々の中で、僕は、かつて依存関係に苦しめた親友、田中に手紙を書いた。手紙には、謝罪の言葉と、感謝の言葉が綴られていた。返事は来なかったが、それで良かった。
数年後、僕は大学で数学を専攻し、研究に明け暮れていた。ある日、研究室に、雫が訪ねてきた。
「すごいね。本当に数学者になったんだ」と、雫は嬉しそうに言った。
「ああ、おかげさ」と、僕は答えた。「君がいなければ、今の僕はなかった」
雫は、少し照れくさそうに笑った。「私も、自分の夢に向かって頑張ってるよ」
「知ってるよ」と、僕は答えた。「君なら、きっとできる」
僕たちは、しばらくの間、互いの近況を語り合った。そして、別れ際、雫は僕に言った。「また、いつでも会えるよ」
僕と雫の関係は、恋愛という形にはならなかった。しかし、それは、僕にとって、かけがえのない宝物となった。それは、真の友情であり、依存から解放された、自由な心の証だった。
僕は、数学者として、世界を舞台に活躍している。そして、今も、自傷行為に苦しむ若者たちのために、講演会を開いたり、相談に乗ったりしている。
過去の過ちを繰り返さないために、僕は、常に自分自身を見つめ続け、依存ではなく、自立した人間として生きることを誓っている。
虚数世界のような複雑な迷路の中で、僕は、自分自身の距離を見つけたのだ。