虚数解の恋

Drama 14 to 20 years old 2000 to 5000 words Japanese

Story Content

春爛漫の桜並木。高校二年生の数学が得意な蒼太は、いつものようにイヤホンで耳を塞ぎ、足早に学校へと向かっていた。桜の花びらが舞い散る中、彼の目に留まったのは、ベンチに座って小説を読んでいる少女だった。
透き通るような白い肌、長い黒髪。その儚げな美しさに、蒼太は一瞬にして心を奪われた。彼女の名前は雫。同じクラスだと知ったのは、入学式から数日後のことだった。
雫はいつも一人でいた。休み時間はいつも図書館で本を読み、授業中もノートを取る以外はぼんやりと窓の外を眺めている。蒼太はそんな彼女に、どうしようもなく惹かれていった。
ある日、蒼太は勇気を出して雫に話しかけた。「あの…もしよかったら、一緒に昼食を食べませんか?」
雫は驚いたように顔を上げ、蒼太をじっと見つめた。「…いいよ」
それが、二人の依存にも似た奇妙な関係の始まりだった。
昼食はいつも屋上で食べるようになった。蒼太は数学の話や趣味のゲームの話を一方的に喋り、雫は時折相槌を打つだけ。それでも、蒼太は雫と一緒にいる時間が何よりも大切だった。
しかし、蒼太の心には拭えない不安があった。これは本当に恋愛なのだろうか?それとも、ただの一方的な依存なのではないか?
かつて、蒼太には親友と呼べる存在がいた。名前は拓海。小学校からずっと一緒で、互いのことを何でも知っている、なくてはならない存在だった。しかし、蒼太は拓海への友情を、いつしか過剰な依存に変えてしまった。
いつも一緒にいたい。何をするにも一緒じゃないと嫌だ。拓海にだけは、自分の全てを理解してほしい。そんな歪んだ感情が、拓海を苦しめていることに、蒼太は気づけなかった。
そしてある日、拓海は蒼太に告げた。「もう、疲れた。お前のそういうの、重すぎるんだ」
その言葉は、蒼太の心を深く傷つけた。拓海は蒼太の前から姿を消し、連絡を取ることもなくなった。それ以来、蒼太は他人との深い関わりを恐れるようになった。
雫との関係も、かつての拓海との関係と同じ道を辿るのではないか。そう考えると、蒼太は夜も眠れなくなることがあった。それでも、雫の隣にいたいという気持ちを、どうしても抑えることができなかった。
ある日、蒼太は雫の腕に、無数の傷跡があることに気づいてしまった。カッターナイフで切ったような、生々しい自傷の跡だった。
「…雫、これ…」蒼太は言葉を失った。
雫は蒼太の視線に気づき、慌てて腕を隠した。「…見なかったことにして」
「どうして…?」蒼太は震える声で尋ねた。
雫は俯いたまま、何も答えなかった。蒼太は雫の腕をそっと掴んだ。「教えてよ、雫。僕に何かできることがあるなら…」
雫は顔を上げ、蒼太の目をじっと見つめた。「…誰にも、言わないでくれる?」
蒼太は強く頷いた。「約束する」
雫はゆっくりと語り始めた。幼い頃から両親に愛されず、いつも一人でいたこと。学校でも孤立し、居場所がないと感じていたこと。誰にも頼ることができず、自傷することでしか、心の痛みを紛らわせることができなかったこと。
蒼太は雫の話を聞きながら、自分の過去と重ね合わせていた。孤独、絶望、そして依存。自分と雫は、まるで鏡に映った存在のようだった。
「…僕も、辛いことがたくさんあったんだ」蒼太は意を決して、拓海との過去を雫に話した。拓海との友情が壊れてしまったこと。他人との関わりを恐れていること。そして、雫への複雑な感情。
雫は蒼太の話を黙って聞いていた。話し終えた蒼太は、雫の顔を見ることができなかった。
「…ありがとう」雫は小さな声で言った。「話してくれて、ありがとう」
雫は蒼太の腕にそっと触れた。その温もりが、蒼太の凍り付いた心を溶かしていくようだった。
その日から、二人の関係は少しずつ変化していった。蒼太は雫の心のケアをするようになり、雫もまた、蒼太の心の傷を癒そうと努めた。互いに依存するのではなく、支え合い、助け合う。そんな健全な関係を築き始めた。
しかし、問題は山積みだった。数学に没頭することで現実逃避をしてしまう蒼太、過去のトラウマから抜け出せない雫。二人の未来は、まだ不透明だった。
ある日、蒼太は数学の難問に挑んでいた。何時間も考え続けても、答えは見つからない。焦りと苛立ちが募り、蒼太はつい、自暴自棄になってしまった。
「もう、どうでもいい…」蒼太は問題集を投げ捨て、自傷行為に走りそうになった。
その時、雫が蒼太の腕を掴んだ。「だめだよ、蒼太。そんなことしちゃ」
雫の必死の訴えに、蒼太は我に返った。「ごめん…」
雫は蒼太を抱きしめた。「大丈夫だよ。私がいるから」
雫の温かさに包まれ、蒼太は初めて心の底から安心した。自分はもう、一人ではない。雫がいる。彼女が支えてくれる。
それでも、蒼太は数学への執着を捨てきれずにいた。 数学で結果を出すことが、自分の存在意義だと信じていたからだ。大学に進学し、数学者になることが、自分の唯一の目標だった。
雫はそんな蒼太の気持ちを理解していた。「蒼太が本当にやりたいことをすればいい。私はいつだって、応援しているから」
雫の言葉に、蒼太は迷いを断ち切った。自分は本当に数学者になりたいのか?それとも、ただ数学依存しているだけなのか?
蒼太は数学の問題集を閉じ、雫に向き合った。「雫…僕は、数学よりも、君と一緒にいたい」
雫は驚いたように目を見開いた。「え…?」
蒼太は深呼吸をして、自分の気持ちを正直に伝えた。「初めて会ったときから、君のことが好きだった。これは、ただの依存じゃない。本気の恋愛なんだ」
雫の瞳から、涙が溢れた。「…私も、蒼太のことが好き」
二人は抱きしめ合った。春風が二人の頬を撫で、桜の花びらが祝福するように舞い散った。
しかし、二人の関係はまだ始まったばかり。これから、様々な困難が待ち受けているだろう。過去のトラウマ、周囲の偏見、そして、互いの未来への不安。
それでも、二人は手を取り合い、共に乗り越えていくことを誓った。二人の依存にも似た恋は、ゆっくりと、しかし確実に、本物の愛へと変わっていく。
そして、蒼太は雫に出会ったからこそ、気が付いた事があった。以前の親友、拓海は自分にとってかけがえのない存在であったこと。別れてしまったことは悲しいけれど、拓海を依存で苦しめていた自分は、今の自分とは違う人間なのだと。いつか謝りたい、そしてまた友達になりたい…。
それから数年後。蒼太と雫は、それぞれの道を進みながらも、互いを支え合っていた。蒼太は数学の道を諦め、心理学を専攻することにした。雫の心のケアをする中で、人の心に寄り添うことの尊さを知ったからだ。
雫は自傷行為を克服し、カウンセラーの資格を取得した。過去の自分と同じように苦しんでいる人たちを救いたい。それが、雫の新たな目標になった。
二人は将来、一緒に心のケアをする施設を作ることを夢見ている。そこで、過去の傷を抱えた人々が、互いに支え合い、助け合いながら、新しい一歩を踏み出せるように。それはまるで、数学の難解な問題を解き明かすように、根気強く、そして丁寧に。
虚数解は、実数解を持たない。数学ではありえない存在。でも、蒼太と雫は、ありえないと思われた二つの心が、互いに引き寄せ合い、結びついた。それは、数学では証明できない、愛の奇跡だった。